百を数えたふる里探訪。思いを巡らしながら国道から北吸を経て道芝トンネルへ。ここが本線か白鳥街道へ抜けるかの分岐点なるも、公園花壇の満開に魅せられてここで一服―。公園内には旧隧道のアーチ部煉瓦と銘板がそのまま残されている。先人達が手作業により丹念に造り上げた“遺産”に心がうなる。そして、赤レンガの町舞鶴の当時が見え隠れしてきた…。
明治19年、舞鶴を鎮守府の予定地に。同35年11月、鎮守府を中心として鎮守府東街道と西街道を。街は旭川を参考にして軍港都にふさわしい新舞鶴を完成したのである。つまり、この道芝トンネルは鎮守府東街道のことで、余部上9丁目に始まり、隧道を経て北吸、大門か若狭へ。更に福井から金沢に至る旧第九師団に至るものであった。
工事は明治33年から3年がかりで開削。道芝峠隧道の距離約271間、幅員3.5間、海軍力拡張による整備事業。当時、軍港内の道路は一般の通行が禁止されていたため、市民にとってこの隧道は、東西を結ぶ唯一の道路として極めて重要なものであった訳である。
平成6年、拡張工事で取り壊されレンガ調に。銘板には「光大道其」とあり出典は不明。「道がおおいにひらかれた」と言う意味で、トンネル貫通によるのびのびとした気分のあらわれである。当時の隧道への思いが偲ばれる―。
市内には、今も120件の煉瓦建造物が日々の生活の中に生きている。「いつか、どこかで出逢いの気がする。」の赤レンガポスターの前に立っていた自分。今日もまた、ノスタルジーの心に浸りつつ…このシリーズを終える―。(完)
お礼のことば
平成13年4月より5年余り―「ふる里みてある記」が100回を迎えました。
舞鶴の海、山、川、まち、ひと…いつも気付かなかった“100カ所・100話”の中からすばらしい「宝物」が語りかけていました。
ここでペンを置き、また、新しい視点で「ふるさと舞鶴」を見つめたいと思っています。
皆様の温かいご指導とご協力に感謝申し上げます。(村尾幸作)
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