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NO.79 「太鼓堂」モニュメント(西舞鶴駅西口緑地)   

 JR舞鶴線の電化で、橋上の駅と施設を併設したガラス張りの西舞鶴駅に降り立った。城下町の駅前広場には、大きな“太鼓櫓(たいこやぐら)”の時計塔が待ち受けている―。
 「丹後田辺に過ぎたるものは、時の太鼓に野田希一(きいち)」と東海道の馬子唄にもあるように、田辺城内にあった太鼓堂は、朱子学の大家で明倫館の執政者・野田笛浦(てきほ)(希一)とともに田辺藩の誇りであった。
 明倫とは、人の道を明らかにして教え導くの意。その明倫館は、牧野宣成(ふさしげ)公の天明年間(1781〜)に明倫斎として始まり、大手門を入った現在の市民会館の位置にあった藩校。その後、牧野誠成(たかしげ)公の時に増築し明倫館と改称。建物の屋上には櫓を造り、太鼓を据えつけて時刻を知らす「太鼓堂」があった。また、太鼓の打ち方や「時鼓方、月二円宛四人」と明倫小学校設立見込表が、明倫100年史に記されている。
 想像だが、この太鼓堂から時を打てば寺がこれを聞き、鐘を撞いて城下一円に時刻を知らせたのでは、と。その太鼓堂がすなわちモニュメントの時計塔なのである。高さ12メートル、東西に時計表示板。正午に舞鶴風流音頭、夕方5時は舞鶴小唄のメロディーと太鼓で時を告げている。外壁に瓦職人を偲ぶ瓦の平板、広場は田辺城の形をモチーフにし、夜になるとガラスブロックの城壁に灯りを入れて城下町をイメージ…。平成6年3月完成。
 ―過去と現在、そして未来をつなぐ太鼓堂のモニュメント―は、いま誕生してから10年目。



NO.78 伝承「大椎ノ木(おおしいのき)」(大山)   

 春告げ草は「梅」。中田から田井線を走る早春のドライブ―。大山峠を越えて旧道を100メートルほど入ると、広大な梅林が開けてくる。その道路脇に樹齢300年の巨大な椎ノ木があり、地元ではこれを「大山の大椎ノ木」と呼ぶ。そしてこんな伝承が…。
 田井の沖合にある毛島の絶壁には、鷹が生息している。田辺の殿様は鷹のひなを捕らえさせ、地元の庄屋に飼わせていた。ある時、鷹が逃げだしたため藩主は大変立腹して、2人の庄屋に打ち首を命じた。そして刑の場所をこの大椎の木と決めて、日時を指定したのである。
 執行の日、1人は土地の氏神様へお参りしてからここへ向かい、他の1人は「打ち首にされるのに今さら神様へ参ることもあるまい」と一足先に出掛けて処刑された。その直後、鷹が見つかり、遅れた庄屋は助かった…という伝説。
 ところで鷹は切り立った岩壁のほら穴に巣を作るが、そのひなをとる様子は「丹哥府志」に―頭巾をかぶり片手に籠、他方で合図用のわき綱を持ち、太い綱で体をくくって岩の上から降りていく。穴を見たら岩を蹴って宙に浮き、綱の反る勢いで穴の中に入り込んでひなを取る。岩の上の命綱は親子兄弟が引っ張る―と記されている。
 椎はブナ科、ドングリの木で常緑高木。ちなみにこの村の椎ノ木はこれ1本だけとの由、今も残る植物伝承の1つである。どうぞ大木と梅林見物にお立ち寄りを。



NO.77 中舞鶴交番の「門柱」(余部上)   

 古代の郷名「余戸」の名残から「余部(あまるべ)」に。明治20年、軍のため村人が立ち退き山や田を整地して中央に12間の街路を建設した。明治34年鎮守府開庁。翌年に1万1000人の余部町が誕生した中舞鶴―。
 直線道路が走る上5丁目交差点には昔から交番所があり、その両脇には石を埋め込んだ巨大な門柱が今も居すわっている。1面3尺の角柱、高さ6尺の頑丈さ。これぞ歴代の“番屋”の正門である。
 明治33年、「憲兵屯所、余内村字余部上に新築移転」の記録から再現すると、ここに陸軍省京都師団の「憲兵中分隊」が設置されたのであった。屯所は写真で見る限り、寄せ棟の瓦葺き2階建て、粋な窓に威厳のある玄関ポーチ。周囲を石積み基礎に高い板塀で囲み、敷地の中は屯所と隊長官舎、奥には数頭の馬小屋と馬術場があったという。
 憲兵とは、軍規の確立と治安維持、民衆の鎮圧機関であっただけに、市民からは何よりも怖い存在。カーキ色の軍服に長い軍刀をさげた騎乗の警ら姿は、威厳そのもの。また、裏の公園は当時の武道場。柔剣道など心身の鍛練が行われていた建物跡が今も残っている。
 現在、東署管内には4交番と6駐在所が配置されているが、この中舞鶴交番も重要拠点のひとつ。
 憲兵分隊から今の交番所に至るまですでに100年以上経過した。この間、門柱はここから1歩も動ぜず“守り”に徹して今日へ…。
 乞う!いぶし銀のこの門柱こそ、いま求められる「安全」のシンボルに!



NO.76 石切衆による石垣、北野神社〈天満宮〉(千歳)   

 初詣では千歳の天満宮へ。ここは大浦半島の西端、海上交通の要所である。慶長年間、千歳は波佐久美(はさくみ)村と呼び、連歌師の紹巴(じょうは)や校歌にも“千歳の松”を詠み、今も松の名残と舟屋がある35戸の漁村。
 村では、北野神社(天満宮)よりも上(かみ)の宮さんとして親しまれ、初詣では一ノ宮、大将宮の古社のあと、天満宮へ参拝するのが習わしとなっている。
 昔、大浦組の大庄屋、津田惣右衛門が京都の北野天満宮を勧請したと言われ、鳥居には「天満宮」の額が― つまり、菅原道真を祀る文道の大祖なのである。特に大浦地区では天満宮が7社もあり、天神信仰が厚い。
 さて、ここで注目すべきは境内を囲む見事な石垣である。正面には畳1帖半もある分厚い花崗岩の板が何枚も貼られ、裏からは約30メートルにわたり、壁2層分ほどの石積みで境内を取り囲み、まさに“城壁”そのもの。昔から千歳は石積みの技術が高く、田辺城の石垣造りをしたとある。11人衆と呼ばれる石切衆が産地の千歳から博奕岬の花崗岩を切り出し、2艘舟で運んで積み上げた、と伝えられている。また、神社の後方には、津田家の仏像140体を納めた如来堂がある。
 以前、鳥居の前はすぐ海。潮が引くとアサリがいっぱい…が、今は埋め立てて親海公園に変貌。今年、この一帯から新しいエネルギーが誕生する。正月飾りの境内は、梅も膨らんで満願成就の春へ! 「技」を今に伝える天満宮の初詣でに心が和んだ―。



NO.75 “たたり薬師”さん(白杉)   

 白杉から金ケ崎へ向かって1番奥のアンモの谷へ。車はそこで行き止まり。湾口西岸の白杉は58世帯、船は約60隻。海との関わりが深く、金ケ崎周辺など舞鶴随一の漁場にも恵まれている。特に昔はナマコ漁が盛んで江戸時代に献上したことも。さらに昭和初期までは、ランプの燃料に使われていた桐の実(コロビ)と養蚕で、富豪の財を得たと言われる。
 その桐畑があった棚田の中に1つ、温泉伝承を伴う薬師堂が建っている。舞鶴湾を一望し、こんもり茂った所にある二間四方の堂は、裏のタモノ木が直撃して昭和37年に再建。堂内には、像高23センチの薬師如来像が安置されており、ここの水を持ち帰ると目と耳に御利益がある…が、併せて“たたり薬師さん”の異名でも名高い。縁起木札に「往昔、何時の程よりか(略)その威顕著にて、沖を航する舟は、帆柱を倒さざれば航海することを得ざりという」と。
 つまり、漁船が外海へ出る時、薬師さんに祟られ船をひっくり返されるので、この前では静かに帆を降ろし、用心して波高い日本海へ出ていった訳である。そして今も、海上安全を祀る薬師さんとして信仰され、毎年七夕の夕べに祭事が行われている。
 ここは、荒れる日本海への出入口。「気を引き締めよ!」と、海に挑む意気込みが伝わってくるようだ。“猿の尻笑い”ならず“猿も木から落ちる”ことのないように―。来年は「サル年」!



NO.74 「新宮凉庭」の像(北吸メディカルセンター)   

 舞鶴医師会は昭和41年に東西医師会が統一され、同51年に竣工した北吸のメディカルセンターに拠点を置く。その玄関に東港を望み医学書を読む「新宮凉庭(しんぐうりょうてい)」の像がある。銅像には、京都南禅寺畔にある先生の私学「順正書院」にあったものを(略)先生との因縁深い舞鶴市に寄贈されたものである―と、医師であった佐谷市長名で刻まれている。
 新宮凉庭は天明7年(1787)丹後由良生まれ。号は鬼国山人(きこくさんじん)。家計が苦しく11歳で伯父から医を学び、才知ある子供と称された。18歳で名声高く開業。しかし、オランダ医学に感服し、24歳で長崎の遊学を決意。これが凉庭大成の第1歩となる…。凉庭は金5両と道中記を首にかけ郷里を出発。このとき田辺藩家老の内海杢(もく)がこれを支援したという。そして、ともかくも長崎で大いに勉強したのだった。
 その後、京都に戻って開業。洋書の翻訳や著書をまとめる傍ら、府立医大の源流となる医学塾「順正書院」を南禅寺に開き、ここで医学や儒学を講義した。また、医科に8科(内科外科など)を設け、翻訳した蘭方書をテキストに定めて体系的な医学教育を広めたのである。京に来たシーボルトも、凉庭は日本最大の蘭書所蔵家で黄金300両に値すると記している。
 幕末丹後の名医「凉庭像」には、当市ゆかりの医学史が秘められていた―。



NO.73 「神石(鞍掛石)」(長浜・高倉神社)   

 中舞鶴最大の秋祭り「高倉神社」の祭礼は、江戸時代から続く御所車のみこしが街中を練り歩く…。重さ500キロ、曳き手80人の行列と女みこし2基に誘われて神社の境内へ。
 社殿まで進むと右側の祠の中に、しめ縄をした大きな石が祀られている。これが古来から“祭神がのりうつる石”と伝えられる「神石(かみいし)」、一名「鞍掛石(くらかけいし)」である。
 長い浜の海辺に面した高倉神社は、蛇島にも近く、外護者は舟軍、水軍の武将たち。古絵図からも海にかかわる神で、海の祈りを中心とした神社。戦国時代、この辺りは武将の練武場で、石の由来は主祭神(うじがみさま)がこの石に鞍を掛け、馬上姿となって練武されたことから、神が“のりうつられた”として崇敬し、この石をまたぐことを許さず、これを犯した者は必ず祟りあり…と。それ故、病気の霊験あらたかで、この神石に触れた手を痛む患部に当てて祈願すれば、痛みが救われるという伝説がある。
 明治のころ、海岸沿いの五森街道には20軒ほどの五森村があったが、軍用地として接収され軍の爆薬部に。また、海に突き出た神石は海岸一帯を埋めた際、その一部を境内に移したものである。
 時代を経ても、この石を身体救護の「神石」と仰いできた先人たちの素朴で純粋な気持ちは、そのまま秋祭りの中にも生き続けていた。心が澄んだ秋空のように―。



NO.72 ブロンズ像「おはなし」(溝尻、市場の松島公園)   

 “読書の秋”で東図書館へ。玄関を出た南側は、広々とした公園が開ける。この辺りは昭和18年4月竣工の「舞鶴海軍館」があった所で、戦後は市民の文化の拠点「東公会堂」として馴染み深い。現在は「松島公園」(0.58ヘクタール)として整備し、自由広場や遊具が並ぶ街の中の静かな公園である。
 その公園と図書館に面した緑地帯スペースに建っているブロンズ像が1基、秋の優しい光の中に調和して美しい。題名は「おはなし」。茂木弘行氏の作品である―。街の中に“うるおい”と“やすらぎ”を!生活の質の豊さを求めた「彫刻のあるまちづくり」事業の1つで、平成4年5月4日に設置された。像の高さ147センチ、台座30センチ。
 意図書によると、「傷つかれた幾多の人々の魂を安んじ、平和と自然を愛し、他人を大切に思う心をブロンズ像に、乙女と鳩の語らう姿をもって表現した」とある。また、作者への寸評スレーズは、“妥協のない制作信念に徹する彫刻家”と言われ、この作品もオリジナルそのもの。
 いま、児童の活字離れが追い風となり、「読み聞かせ」がブームを呼んでいる。絵本からの話し合いで心豊に、親子の“きずな”を深めることが大切。背景の図書館にもマッチしたこの像は、身近な空間で共生し、平和を語っている感じである。どうぞ秋の夜長を心ゆくまで「おはなし」あれ。



NO.71 「一里塚」と道標(野村寺)   

 田辺城の“外堀”にあたる高野川に沿って野村寺へ。民家は寺下橋周辺と南部に集落し、北西に田園地帯が広がっている。府道を奥へ走ると野村寺橋の袂、右岸に一里塚の石柱と名号塔(みょうごうとう)が目に止まった。側には灯籠と4、5体の地蔵さんも。石柱には「田邊ヨリ壱里」と刻まれ、道標は「右ふくち山、川口、南無阿弥陀佛、道、左、城や、うちくい」となっている。
 一里塚の起源は中国。江戸の日本橋を起点に一里ごとに築かれ、丹後の国の一里塚では高野川に架かる大橋からの距離を標している。『まいづる田辺道しるべ』(安田重春著)によると、野村寺は藩が川沿いに遡上して行く河守街道で、田辺藩の主要四街道のひとつ。
 すなわち、由里から高野川左岸に道があり、宝寿寺門前を通って堤防道を上がるとKTRの橋梁へ。田辺絵図では村中で2方向に分かれ、道標が指す右は真壁峠を越えて由良川を上る河守街道。左は城屋から丹波に至る道のこと。また、念仏を唱えて峠越えをする安全祈願と供養塔であった\と。このような里程を記した一里塚の石柱は、3基だけ現存しており、貴重な文化遺産。
 この日、野村寺橋を渡り、先人が旅した街道を歩いてみた…。曼珠沙華が燃える1本の田圃みち。猿スベリの木の下で地蔵さんに合掌。その昔、「ショウケ田」(ザルの意)とまで呼ばれたこの地も、黄金の“実りの秋”に。



NO.70 「二宮金次郎」の像(浜)   

 市街地のど真ん中、大門三条の北都信用金庫(旧東舞鶴信用金庫本店)前に、二宮尊徳(通称金次郎)の像がある。高さは約1メートル、台座含めて約1.8メートルの白御影の石製。薪を背負い本を読む金次郎の知名度は高いが、「何故こんなところに…」。
 尊徳は江戸時代の農政家。少年時代に洪水で一家離散の憂き目をみたが、勉学と勤倹に励み34歳で地主に。後に農村復興や金融機関「報徳社」を設立。その偉業は戦前の修身に登場し、像は旧村の学校に今も残る。尋常小学校唱歌第2学年20曲の中には、「草鞋をつくり、親の手を助(す)け弟を世話し」とあり、唱歌から物事の善悪を教わったとも。
 像は東信会長の故・古川正一氏の発案で、平成4年9月21日に建立された。無から道を開く勇気と自覚、感謝して勤労に励む尊徳の教えは「温故知新」。カード破産や好景気によるモラルの低下などの中、伝統から新しい価値と意義を再発見していく心構えが必要で、その警鐘として建立されたという。さらに氏は、今の長寿者は幼いころから汗水流して足腰を鍛えたからこそ、いま世界一の長寿国になったと。
 「敬老の日」。無のどん底から日本は復興し今日へ。高齢者への感謝の気持ちと本当の“豊かさ”とは何か。この日、像の前で失っていた心をもう一度噛みしめた。



NO.69 「小便地蔵」さん(八田)   

 八田は細川藤孝が築城の際、紺屋の農民を移した所で「ヤタ」、いまは「ハッタ」と称する。40数世帯の集落である。大川橋交差点から約500メートルの地点には、村の重宝な地蔵さんが祀られており面会した。
 由良川左岸を国道178号線が通っているが、この地方に初めて道路が開通したのは明治22年。当時、八田から丸田東、和江には3尺ほどの山裾の道で村と村を結んでいた。
 その昔、この辺りは宮津街道を往還する人や村人たちが、ひと休みするのに良いところ。ついでにここで立ち小便を…。地蔵さんはいつも頭から小便をかけられていやな思いを。そこで何とか人間どもに小便が出ないように―と考えられ、「立ち小便は困る」意を夢の中で告げられたそうな。
 その後、村人たちは「小便地蔵さん」として祀り、お参りすると寝小便が治ると言われるようになった。本体は背丈約1メートル、胴回り60センチほどのダルマのようなお姿。どうやら八田の道づくりで掘り当てたらしい。
 現在、昭和42年の新道整備で民家とともに地上げされ、国道から4メートル余りの高台へ。また、祠の側には川の砂利揚げで出てきた数体の地蔵さんや村の荒神さんも、この防風林の下に集い神仏あわせた聖地に。
 お地蔵さんは今日もお礼のよだれかけを何枚も掛けて笑顔なるも、社会は高齢化でオムツの需要は増えるばかり。さて、このご時勢をいかがご覧のことやら…。



NO.68 「五郎の滝」(別所〜布敷)   

 “涼”を求めて池内川(全長約9.3キロ)をさか上る。昔、大雨で山が崩れ、流れ出た水を谷に湛えて湖に\と考察する池内の谷は深い。分水嶺を綾部との境界に置き、水源は岸谷、寺田、上根、別所を流れ、布敷を経て池内校から今田を通り、真倉川と合流して伊佐津川となる。
 水の神様「池姫神社」上流の上路(かみじ)橋から沢を上ると、巨岩がゴロゴロと清流から飛び出した渓谷が百rほど続く。すると前がにわかに開け、静寂の中から水が激しく流れ落ちる音が…これぞ由緒ある「五郎の滝」出現!である。滝の幅は20メートルにわたり、赤みを帯びた巨岩が点在し、しかも二連の滝を形成。並んだ滝線から滝壺に流れ落ちる光景は、実に見事な夏のオアシス。
 滝の由来は五郎山(標高384メートル)が降り続いた大雨で崩れ、川をせき止め、布敷から奥地の上流が池になったという。その実証に奥地沼を舟で往来した寺田の“舟つぎ岩”や弁財天も祀られている。また、山はすり鉢状の原形、そこに平家が隠れた“千人かくし”場も。さらにこの滝で七日七夜身を清めると、奥沼の大蛇の姿が消えた話や、石を引くと雨が降るという石引き行事など信仰は厚い。
 村の先輩は「五郎の滝こそ最高の夏の遊び場!サンショウウオもいっぱいいた」と子供のころが懐かしい。滝は幾多の伝承とともに“地域の宝もの”として健在である。



NO.67 「火の見やぐら」(溝尻)   

 万代橋〜千歳橋で信号が赤になった。ふと上流に目を移すと、祖母谷川に馴染んだ風景が広がり、しかも橋詰には木製の「火の見櫓(やぐら)」が建って昔の面影が…。櫓とは火災を早く知らすための望楼。天井には半鐘が吊るされて、今なお「健在」である。
 明治末期、新舞鶴消防組が発足し、東地区を四部で編成。櫓は第3部地区の市場竜宮橋南詰にあったが、昭和24年?老朽化により解体され、3、4部地区用として現在地へ。昭和40年ごろまで鐘を鳴らして使われていた。叩き方は●―●●●訓練出動、●●●連打が火災出動。記した木札を掛けて、住民への周知を図っていたという。鐘は銅製、撞木(しゅもく)で叩いていたが今はない。櫓は10メートルほどの電柱3本に筋斜交いにして建て上げ、梯子で登る構造となっている。
 昭和45年の大晦日前夜、年末警戒の打ち上げ解散直後に近隣倉庫から火災が発生!帰宅途中の団員が、この鐘を連打して初期消火に貢献したエピソードも。
 昭和28年の団条例により、市は20団と制定。火の見櫓を有する東消防団は団員57名。消防自動車3台を持つ筆頭の団として誇り高い。また、祖母谷川は蛇行した「天井川」なるも、改修されて消火水利の役割を果たしている。
 消防の今と昔。火事の恐ろしさ。ふと見落としていた「火の見やぐら」から、見落としの注意すべきは「火の用心」への心がけ!



NO.66 舟屋「シチケンブン」(成生)   

 大山峠を越え田井へ。さらに左に入ると、そこは大浦半島の最北端「成生漁港」。土蜘蛛征伐のとき、岩が光り(甲岩)、甲(かぶと)が鳴り響いて鳴生(なりう)(成生)の地名が誕生。緩やかな傾斜地に密した21戸の漁村集落である。
 浜は短く、手前に明治36年、全戸組合員として結成の漁業組合がある。また、海のすぐ傍らには、舟屋が建ち並んでいる。中でも、土壁に格子窓、2階建ての連結した長屋が目に止まった―。これが、ブリ漁の盛んであった大正3年ごろに建てられた「シチケンブン」と呼ばれる連棟形式の舟屋である。内部は7つに区画され、左側3区は各1戸、右側4区は各2戸が共有し、11戸で共同利用されている。
 舟屋は間口2.5メートル余り、奥行きは10メートル以上あり、1階に船を格納、2階は漁具置場、作業場としても活用できる。連棟の長さは浜に面して21メートルもある。しかし、屋根は1つでも持ち主は別々。各々に登記されているという。
 昔、手漕ぎの木造船をコロやウインチでこの舟屋に格納していたが、現在残るのは3隻だけ。漁船は30隻が稼働。漁場は成生岬までの約3キロで、昔と同じ。北風より西風が吹くと潮が動き大漁だとか。
 村が1つになって、海と共に生きてきた営みが脈々と…。舟屋は「船の癒し場」。その1棟1棟に、船を大切にする漁民の心意気をみた!



NO.65 「大川橋」(藤津・八田間)   

 ひらがなの「ん」の字を描いて南北に貫流する由良川。この大きな川に架かる橋が「大川橋」。ここを通る175号線が旧名を鎮守府西街道とも呼ばれ、日本の裏から表への動脈であり、また、加佐地区と結ぶ要所でもある。
 300年の昔「田辺城絵図」には川の舟渡しが往来し、竿で漕いだ高瀬舟や帆掛け舟で賑わったとも。初代の大川橋は、明治34年の藤津船橋で小舟15隻を浮かべ、その上に板を敷いた「船橋」が始まり。しかし、年々歳々起きる洪水で再三再四流出し、続いて板橋土造りを架設した。その後、何回も再建を繰り返しつつ、昭和28年5月に現在の鉄筋大川橋の竣工へ。同年の13号台風でも微動だにせず、救助移送に大活躍したという。
 橋は由良川に180キロの鋼材で架けた2脚のトラスト橋。高さ制限は4.5メートル、幅員6メートルの各1車線で、すれ違いも厳しい。交通センサスによると、利用車両は1万台を突破するが、車両の増加と大型化で難所の橋となってしまった。
 工事中の新橋完成は5年後。長さ約400メートル、幅23メートル、歩道付き4車線の「超大川橋」。6基の橋脚に鋼4経間(八田側)、及び鋼3経間連続合成ラーメン箱桁構造とうかがう。
 完成すれば、藤津峠から一直線に由良川を渡り切る―。やがてこの橋も、50年間の大役を終えて世代交替か。とは言え、時代変われど「心のかけ橋」だけはいつまでも…と願うばかり。



NO.64 代命地蔵尊<みがわりじぞうそん>(五条海岸)   

 舞鶴東港を望む緑地しおじプラザは憩いの広場。シーズンには定期船や湾内めぐりでにぎわう、その東側に4本の椎の木に囲まれた静かな一角がある。日陰で最適の場所なるも、そこには2体の地蔵尊が。思わず何故ここに、と問いかけたくなるのだが…こんな縁起が秘められていたのである―。
 昭和36年ごろ、五条海岸防波堤工事のとき、散歩中のS氏が土中から掘り出された首なし地蔵の石仏を発見。以来、風雨にさらされた姿を見た心ある人々によって、この場所を清掃したのが始まりという。しかもS氏は、地蔵尊の首のない姿に心を痛め、倉谷の石屋に駆け込んで何とか五体満足なお地蔵様にと懇願。やがて顔面約8センチ、全長40センチの優しい姿の地蔵菩薩が、見事に復元されたのである。さらにS氏は、高さ35センチのもう1体を隣に安置した(同38年8月26日開眼)。
 それ故、縁起札には滋(ここ)に代命(みがわり)地蔵尊と奉名し、永久にこの地鎮(しず)まりて加護あらんことを念願する次第…と記されている。
 地蔵尊の身代わりとは、仏様の代わりに人々を助けて下さるとあり、交通安全・海上安全・人命守護のご利益は大きく、地蔵盆はされないが毎日の参拝者は絶えない。
 S氏とは、故其田寛氏、補導員など地域社会に熱く貢献された御仁。やはり「この人にして、この行動あり」か、と感服するのみ。



NO.63 瑠璃寺の「しだれ桜」(吉田)   

 丹後路に春が来ると「ふるさと」の話題は桜。バラ科の落葉高木でソメイヨシノ、彼岸桜など10数種類あるが、中でも曹洞宗金剛山瑠璃寺のしだれ桜は、舞鶴の名物。高さは8メートルもあり、枝が何本にも分かれ、高台の境内から滝のように垂れ下がって美しい。
 親樹(左)は樹齢300年とも500年とも言われ、公家人の庵か祇園から来たのか…。田辺藩は、今から400年以上前に細川幽斎と忠興親子によって築かれた城下町。歌を詠む幽斎の友人、中の院道勝がこの地に幽閉されており、それを慰めるために幽斎が京都の吉田から桜を移植し、以後この地が吉田と呼ばれるようになったという。
 今は2代目の樹に春を委ね、その横には三代目の「若い桜」も植えられている―。2代目(右)は大正初期に初代桜の衰えを恐れて移植され、今も脈々として心花に徹する風情を誇り、村の人々の生活とも縁が深い。
 初代、そして2代から3代へ…「年々歳々ここに開き、歳々年々人はここに集まり、悠久自然の恩恵に浴することの幸せを感じつつ、春を楽しまん哉」と。
 (昭和52年2月、市の天然記念物に指定)



NO.62 「開花宣言」の桜(下福井)   

 年々歳々、春風に乗ってサクラ前線がやってくる―。桜は国花として親しまれ、花といえば桜を指す。確かに舞鶴は桜の名所も多く「桜が似合うまち」。そこで気になる「開花宣言」の桜とは、何処に…。何と、舞鶴港湾合同庁舎西側の「生物季節観測場」の中にあった!。
 以前、観測桜は文庫山の所に位置したが、その後、舞鶴公園の城門右にある3本の桜で宣言されてきた。そして平成12年、21世紀を迎え、この観測場の桜と交代して今日へ。樹は昭和49年、庁舎の完成時に植えられたもので樹齢30年を経過。高さ10メートル以上もある立派な桜の木である。
 ただし標準木は、毎年同じ条件で観ていくことが重要。しかも種類はソメイヨシノとなっている。それ故、ここでは自然のままの生育をモットーに監視して春を待っている。
 やがて春到来。この時季になると、毎年午前と午後に直接この桜の木を見つめ続け、1枝に5、6輪の花が開いた日が「開花日」。その日を「開花宣言」として舞鶴海洋気象台から全国へ発信されていく。また、1週間後に満開日となって春は最高潮に。
 江戸末期、江戸染井の植木屋から出た染井吉野(ソメイヨシノ)。昔はつぼみ10個の重さで開花予想したときも…。桜の風情と日本人の心。やはり、桜は「国花」と言うべきか。
 (桜の開花情報は3月5日から4月2日毎水曜日、毎海洋気象台のホームページで紹介される。アドレスはhttp://www.maizuru−jma.go.jp/)



NO.61 港のシンボル「巨大クレーン」(西港第2ふ頭)   

 鶴が羽を広げた姿に似ている舞鶴港。大正2年のふ頭完成以来、貿易の拠点である西港第2ふ頭に、コントラストをつけて映える赤い巨体が…心引かれて現地へ直行―。港湾建物群の中を走る臨港道路500メートル先の突端は、9万平方メートルの広大なコンテナヤード。その2号岸壁に「巨体」は2本足で立っていた。これが港のシンボル「多目的クレーン」である。
 設備は、海上輸送のコンテナ化に対応して平成元年、約7億円をかけて設置。京都府が管理、荷役業の「港運会」によって運用されている。本体重量570トン、高さは60メートルもあり、最大で45トンを持ち上げる。作業半径36メートルの長い腕が、自由に伸びて動き回り、コンテナを一度に摘んで荷役する「怪物」。また、足元の軌道幅16メートルで185メートルのレール上を移動し、船の形状やあらゆる荷物形態にも対応できるという。
 舞鶴港の貨物量は約780トン(平成13年)。韓国、中国、TSCSコンテナ船航路のほか、ロシア、パナマからも。木材、麦、鉱石のバラ荷などが入荷する。入港後はこのクレーンが荷役して広場で荷さばき、フォークリフトからトラックに積んで、京阪神へと走る物流コースに乗る。
 15年目のクレーンに、早くも怪獣クレージーゴンにも似た次なる新世紀ロボットの姿を描く…。港のシンボルに夢が膨らんだ!。



NO.60 大森神社の「八代荒神」(森)   

 大森神社の大鳥居を少し入ると、右斜め奥に「八代神社」があり、地元では「八代荒神(はったいこうじん)」とも呼んでいる。荒神は火を使うかまどの守り神。屋外では、森の大木の所に祀る一族荒神や祖霊の地神(じがみ)などがある。
 さて、この八代神社とは―。須佐之男命(すさのおのみこと)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)との誓約(うけい)の時に生まれた5男神と3女神の八代(人)の神々が祀られており、いずれも激しい性格と祟りやすい神様なので、神殿は「荒神の聖地」。本殿は彫刻入りの間口1間半、奥行2間もある見事な権現造りである。
 祭礼は毎年9月13日、参道に50枚もの灯明皿を並べて点灯、多くの集団講の人々が朝まで語り明かした…。その後「講」も次第に消滅。今日ではくじ当たり宿で営まれる荒神講の風習が、旧元字の6戸によって唯ひとつ継承されているだけ。しかも、祭りに掲げる軸箱の蓋には、宝永4年(1707)徳川綱吉(5代将軍)、113代東山天皇と墨書きがあり、歴史を語る貴重な存在である。
 また、仏典に由来する庚申(こうしん)とも縁あって、睡眠中に三尸(さんし)の虫が身中を飛び出し、その人の罪を天に告げられると罰せられる。それで一晩中眠らずに慎むという。さらに、申(さる)は猿と結んで「見ざる、言わざる、聞かざる」とは、他人の欠点を指摘したり、言いふらすな!との戒めである。この説法が身に染みた。



NO.59 旧舞鶴「水交社」の正門(余部下)   

 国道から雁又(かりまた)のヘリポートに通じる坂道を少し上がると、正面に白い門が迎えてくれた。これが旧水交社の正門である。水交社とは明治9年に創設され、舞鶴では同29年に開設された旧海軍将校の親睦団体で(陸軍には偕行社があった)、海軍士官、高等文官、士官候補生の「社交場」であった。
 この門柱の高さは約3.3メートル、周囲2.5メートル、門扉幅は4.5メートルもあり、両前方へ5メートルのカーブを描いて広がる素敵なデザインの門構え。大正3年建造、レンガ造りとあり、側には「東郷大将手植松」の碑も建っている。1昨年、宿舎の改築に伴い化粧したが、原型は当時のまま。思わず、その優美な姿と格調高い旧海軍の遺産に脱帽!
 当時、水交社は2階建て、バルコニーや池もあり粋な建築。戦後は在日米軍が使用していたが、昭和27年11月に警備隊舞鶴地方総監部が移転。同29年、警備隊が自衛隊に改称され、同総監部は同32年12月、元海軍機関学校(現在地)へ移転し、その後解体されて防衛庁の宿舎となっている。
 顧みれば、旧海軍の誕生以来、戦後の警備隊、保安隊から自衛隊へ。日本の平和と独立を守り、安全を保つための変遷が、門の中でもあったとは…。
 戦前戦後を通じて、この「正門」の向こう側にもうひとつの「舞鶴が生きてきた姿」を見た思いであった。



NO.58 市の木「ケヤキ」の横綱(白杉)   

 舞鶴港FAZのシンボル「舞鶴21ビル」を眺め、一気に喜多埠頭へ。さらに西港を右にして金ケ岬方向へ走る。途中、戸島が急に顔を出した。ここが最も北に位置する白杉である。
 早速にも「ケヤキの横綱」に面会を求め、白杉神社へ向かった。参道入り口に着くと、鳥居の前に見事な大木が立ちふさがっている―。これぞ舞鶴市の木「ケヤキの横綱」なのである。胸高囲5.23メートルもあり、とても抱えきれない。高さは20メートルを超える。
 ケヤキはニレ科の落葉高木で堅く、家具や建築にも重宝な材質。市内各所に育成し、雄伏、強健で大地にしっかり根を張り、力強く空に向かって成長するため、伸びゆく舞鶴の姿にふさわしい木として、昭和58年11月1日「市の木」に制定。以来、横綱の在位20年。この巨大なケヤキは、今も横綱の地位を堅持している。
 いつもこれを誇りとして「綱」を締めている姿は実に頼もしい。まさに貫祿十分である。また、市内の番付では水間公民館の大関、麻良多神社の関脇、大川神社と順を追っている。
 新年を迎えにぎわうであろう初場所。今年は、このケヤキのごとく限りない発展を!心を込めて「柏手(かしわで)」を打つ―。



NO.57 「鷲にさらわれた子」良弁親子対面観音像(西の松林寺)   

 田辺藩ゆかりの3社9カ寺のひとつ松林寺へ。境内の観音堂には、奈良時代に根ざす良弁(りょうべん)僧正の母子作「親子体面観音像」が祀られ、親子の愛情を語りかけている。
 物語は「こころの文庫」(全日本教育研究会発行)の中にもあった。昔、ある所で子どもが鷲にさらわれた。それから母親は、13年も我が子を探し求め、ついにあるお寺の和尚さんに拾われ、育てられた修行中の息子にめぐり逢える。その時、自分の子と確認できたのは、着物の襟に縫い込んでいた観音さまの御札であった…と。
 鷲は猛鳥なるも親子の愛情が最後には打ち勝つ教訓と、奇縁は信仰によるとして仏教説話集の日本霊異記に載せられ、寺には絵巻物も残っている―。
 聞き伝えであるが戦時中の出征には、一日も早い親子対面への祈願が絶えなかったという。今でも参拝すると、出産が短く無事に母子対面できるとの「意」から、短い残りローソクと親子対面観音の御札を受ける安産祈願者が多い。この観音像は木製。若狭で彫られ、一体は奈良の二月堂にもある。
 今年の世相漢字は「帰」。いつの世も切っても切れぬは親子の縁。「親子対面」の願いが届きますように。



NO.56 由緒ある「寺子屋」(泉源寺)   

 青葉大橋から天火明命が志良久と言った志楽を眺め、旧村の泉源寺へ。千年も昔「泉源寺」が村名となったとき、寺基をついだのは中央通り山手にある上寺(かみてら)の智性院(ちしょういん)で、その西隣に構えて建っているのが阿弥陀堂。村では「泉源寺の公会堂」と呼ぶ。
 学校沿革誌によると、「明治四年泉源寺智性院ニ於テ始メテ学校ナルモノヲ設ケラレ(略)之ヲ以ッテ学校ノ始メトス」とあり、この公会堂が教場として開かれていた由緒ある「寺小屋」で、今もここに残って健在している。その名は「遵法堂(じゅんぽうどう)」。建物は阿弥陀堂なるも、寺子の人数により掛け出して拡張し、軒下の古釘は草紙をかけた跡だとも…。
 教師3名、生徒は泉源寺、田中、市場、溝尻の旧4カ村。後に田辺藩の漢学者、恒川竹香(つねかわちっこう)氏が加わり、読み、書き、算術、漢文も教えたという。このように智性院の遵法堂(校)に続いて金剛院の含章堂(がんしょうどう)(校)が。また松尾寺なども学問所となっていたが、明治9年、これらが合併して今日の志楽校の誕生となっている。
 寺子屋は今もそのまま。泉源寺の地で学問を志した先人たちの夢とは―しばし、立ちすくんで動ぜず!
 (記 鹿原神社の境内には氏の遺徳を偲んで「恒川竹香先生碑」が建立されている)



NO.55 伝承の「国分寺」跡(和江)   

 三国岳を源流とする由良川。河口から由良の湊への一帯は、ここを舞台とする「山庄太夫」伝説の地である。その一つ、宮津に最も近い村が和江。国道左の和江谷川に沿って1本の道が村から山に続き、約3キロ入って「国分寺」跡へ―。昔、和江には東雲(しののめ)駅で降りて、「ベタ舟」で川を渡り、この村の道へ。つまり、長谷地蔵に通じる唯一の参拝道として賑わったという。
 さて、陸奥(むつ)の国判官正氏(ほうがんまさうじ)の子、安寿と厨子王は父恋しさのあまり、母子3人と召使と共に九州へ旅立つ…と始まる山庄太夫の物語は、名高いので略するとしても、厨子王が屋敷を逃れて国分寺の和尚に身を匿われ、京都へ脱出。後に丹後の国守となって山庄太夫の仇を打つ「きっかけ」となった重要な伝承地なのである。
 寺の本尊は毘沙門天。国分寺は、後に焼き払われ再建されることもなく、毘沙門堂だけが残っているだけだった。そして平成5年、老朽した堂は立派に建立されて今日へ。堂の中には、畳1帖もある姉弟の別れの場面と旅立ちの姿を描いたI画伯の水墨画も奉納されている。
 鴎外の小説とは異なり、伝承地にかける村の心意気が尽々と胸を打つ…。



NO.54 松尾寺の「イチョウ(銀杏)」(松尾)   

 西国霊場第29番・松尾寺の御詠歌に「往昔(そのかみ)は幾世経ぬらん便りをば、千歳もここに松の尾の寺―」へ。国道沿いから2キロの参道は、近畿自然歩道指定のハイキングコース。荘厳な山門をくぐり、凝灰石(ぎょうかいせき)の石段を登った右側鐘楼(しょうろう)の横に、樹齢880年と推定される巨大なイチョウの木が立っている。市指定の天然記念物である。
 寺伝では、1119年(元永2年)鳥羽天皇が落慶法要でお手植えと伝え、幹周り5.2メートル、高さ30メートル、根周り6メートルの巨体。幹には古木特有の乳房を思わす気根(きこん)が10数個も発生し、この木を「乳垂れ」と呼んでいる。10年ほど前の台風で大枝が折れ、平成5年9月、樹医により総合的な蘇生、延命治療が施され、今では元気いっぱいに。
 イチョウは中生代には地球全体にあったが、現在は日本と中国だけに残ったという「化石植物」。境内にはほかに八本のイチョウやモミ、カヤ、松などの大樹が繁り、霊場の歴史を物語っている。また、参拝入口に食堂や無人販売所もあり、松尾特産の梅干し、いも、ごぼうなど民家22戸の「もてなし」がうれしい。このコース!イチョウの色づきに合わせ、ススキもコスモスも秋を束ねて「おいでおいで」…。



NO.53 しおじプラザと彫刻(浜・東港海岸)   

 東舞鶴駅から真っすぐ北に進んで東港へ。海岸に沿って東西に走る東臨港線は、舞鶴ロマンチックロードのひとつ。
 三条から五条にかけての海岸には、東港を望む「しおじプラザ」がある。総面積3500平方メートル、ツツジの植栽やタイル舗装にベンチが並び、ウォーターフロントにふさわしい公園となっている。中に入ると、2つの彫刻が目に止まった。
 右に建つ高さ190センチのブロンズ立像は、広々とした海のイメージから名付けられた「悠」=写真右。1994年東京の彫刻家、笹戸千津子氏の作品でおだやかな海にふさわしく、優しさあふれた女性像である。また、左寄りには高さ100センチのかわいい少女のブロンズ座像彫刻「海を見つめて」=写真左=がある。作者は、横浜の「赤い靴」で有名な東京芸術大助教授、山本正道氏。
 これら2つのブロンズ像は、彫刻のあるまちづくり事業として設置されたもので、行き交う人々に安らぎのエールを送る役割を担っている。
 (いま、定期船に続いて湾内めぐり「飛鳥」が五条桟橋から出帆していった…。文化の秋。ゆっくりとベンチに腰かけて、「枯木浦」の伝承や情緒あふれる「潮路の秋」を楽しんでは如何かな。)



NO.52 多禰寺の「萩苑」(多祢寺)   

 大浦半島にある多禰寺は、遠く飛鳥時代に起源を持つ真言宗の古刹、萩の寺として有名である。石段を登りつめた山門で阿形、吽形の金剛力士像と体面し真っ直ぐ本堂へ。左側には、日本最大級の仁王像などの重要文化財が収蔵されている宝物殿があり、ここが「萩苑」の入り口―。
 中へ入ると、緩やかな下りにカーブを描きながら、背丈ほどの枝先から房状に咲いた300本のシラハギが、境内全域に広がる別天地…。ループして巡り、やがて山門に続く白萩の帯は、まさに「萩の回廊」そのものである。
 今から8年前、休耕田の活用として白萩を植栽、春先には株分けをし続けて今日の萩苑が誕生した。また、本堂の1尺5寸のハギの丸柱に因んで「萩苑」と命名し、明るくて優しさと清純のイメージから、敢えて白萩が植えられたという。萩はマメ科の多年草で七草の一つ。9月初旬から彼岸にかけて咲き続く。
 中国の易経に「天地万物はすべて陰・陽の気から生じ、相反する性格を持つ」とあるが、何故か陰の秋と陽の白い萩のハーモニーが美しい。「確かな萩」をここに見た。
 (寺には多くの文化財、史跡、古庭園があり、周囲一帯はハイキングコースとして最適。道に沿って88カ所地蔵めぐりもできる。)



NO.51 民話の博奕岬(瀬崎海岸)   

 大浦半島の西端に位置する岬は博奕(ばくち)岬で灯台もある。しかし何故、船の安全を見守る要所を「ばくち」と呼ぶのか。舞鶴クレインブリッジから約6キロ、3つトンネルを抜けると民話の瀬崎海岸へ―。
 昔、この岬に名前が付いていなかったとき、竜神とクジラ大王が出くわした。互いに自分が1番強いと思っており、2人は自慢を始めた。「おれは広い世界のどんな深い海でも潜り、おれより大きな魚はいまい」。「私は大空高く誰よりも速く飛べるのよ」と。自慢の種は尽きず、腕づくで決着となったが、竜神は女性であったため知恵くらべをすることになった。
 近くの海岸に転がっている黒と白の石を使って囲碁の勝負をしたが、結果は引き分けに。これが博奕岬と呼ばれるようになった由縁で、その証拠に今も海岸には白と黒の大きな碁石のような石が線引きして分かれ、岬の突端にはこのとき勝負した30メートルほどの碁盤石が海に切り立っている。
 かつて浦入から登るみかん山も今は火電に変身。でも「民話のふるさと」だけはこのままに―。なぜなら竜神とクジラ大王の2人で囲碁ができなくなると困るから…。



NO.50 おこり地蔵(倉谷)   

 鞍の下の谷「クラタニ」を通る若狭街道は二ツ橋を渡り、倉谷の交差点から左の狭い旧道へと進む。角より60メートルほど入ると瓦造りの珍しい常夜灯があり、かたわらに祠(ほこら)、裏には7体の地蔵尊が安置されている。昔は、ここに便所壺があり、通りは寺や神社の参拝客で賑わった。
 さて、仏教の中心人物は仏さま。次が菩薩さまで、子供の守り本尊の地蔵さまもその一つである。そこで、このお地蔵さんの話をひとつ。
 《あらすじ》子供が地蔵さんを荒縄で縛り、それぞれの「願いごと」をかけ、便所にドボン!と何回もはめては吊るす…。「コラ!何としたイタズラを」と地蔵さまがお怒りになり、子供は「願いがとおればきれいにします!」と約束をする。つまり、地蔵さんを怒らせて「願い」をかなえ、また洗い清めて「御利益(ごりやく)」をいただくという地蔵さんであった。
 「地蔵の顔も3度撫でると腹を立て…」とあるが、コメントは一切不要。何故なら地蔵盆行事の地蔵さんは子供が主人公。地蔵さまは、大地の母のように包み込んで慈しみ、子供を守って下さる菩薩さまだから―合掌。



NO.49 揚松明の「雨引神社」(城屋)   

 毎年お盆の8月14日は高野川上流の雨引神社で「揚松明(あげたいまつ)」が行われる。雨引は「天曳」、祭神は水分(みくまり)の神で、雨乞いしたのが神社のはじまり。また、別名「蛇神(じゃがみ)様」ともいう。
 今から440年以上も昔、森脇宗坡(そうは)という郷士の娘が里帰りのとき、日浦が谷で大蛇に呑まれた。宗坡は直ちに馬にむち打って蛇が谷へ向かい、戦いを挑んだ。そのとき、大蛇は毒煙を吐き、池は沸騰し雷雨の地獄絵と化した。そしてついに大蛇を退治した。その頭をここに祀り、「揚松明」となって今日へ。(うろこは女布、腹部は野村寺、尾は由里に葬る)
 そこで仇討ちを探り3キロ上流の「雨引神社奥の院」を訪ねた。そこには馬に乗って弓矢をひいた宗坡と、5丈3尺(約16メートル)もある大蛇との凄まじい戦いの跡がc。岩を馬で越えたひづめ跡「駒の石踏」や鎗(やり)をしごいて退いた「鎗たて石」など、話に拍車をかけていた。そして、この奥深い戦場の地は、今なお「仇討ち戦記」を静かに語っているのである―。



NO.48 真名井の清水(公文名)   

 西舞鶴から1キロ南の中筋小学校前で「田辺藩名水真名井水」と記されたきれいな川を見つけた。川に沿って道路から200メートルほどたどると、約100平方メートルの真清水の池へ―これが「真名井の清水」。
 史話によると、白雲山(京田の善福寺裏山)の北郊に真名井という所があって、豊受大神が降臨になったとき、そこから鏡のようにきれいな霊泉が湧き出た。場所は、公文名と七日市の境にある池だと言われ、深さは3尺ばかり。日照りや長雨続きでも、年中増減しない水量で、味は甘露の如くにて万病に効く霊泉であったらしい。
 江戸時代は、田辺城内に「御水」が引かれ、その御用水は城下町に供給され、大切に使用されてきたという。近くに笠水神社があるが、笠水とは真清水の湧くところで、「真名井」の意。
 舞鶴小唄の中でも「汲んでおくれよ真名井の清水…切れぬ私の心意気!」と唄われる名水の「ふるさと」である。



NO.47 銅像「飯野寅吉翁」(余部下)   

 中舞鶴交差点の児童公園に「飯野寅吉翁」の銅像が建っている。
 飯野翁は慶応元年(1865)福岡県に生まれ、若くから実業家を志して明治32年、中舞鶴に飯野商会を設立。創業当初は石炭販売と港運業を、舞鶴鎮守府開庁後は港湾荷役業、石油の海上輸送に重点を置いた。
 昭和20年の終戦で海軍のまち舞鶴も大きな打撃を受けたが、このとき翁は荒廃した海軍工廠跡を民間工場として引き受け、造船業を通して舞鶴の復興に尽力し、中舞鶴町役場の新築、学校や公共施設に多額の寄付をした。
 そこで元中舞鶴町では翁の功績を讃えて、銅像を昭和27年に再建した。当時は「銅像まつり」も行われていたという。戦時中にも作られたが、金属回収で不在となっていたのだ。
 思えば、石炭商から身を起こし、厚い人情と誠実な人柄によって19社からなる関連企業を確立した翁は、昭和24年舞鶴で85年の輝かしい生涯を閉じた―。
 翁は港湾都市「舞鶴」に「もっと元気を出せ!」と喝しておられるようでもある。



NO.46 水辺公園の「岡田橋」(岡田由里)   

 京都縦貫自動車道の綾部ICから舞鶴大江IC間12.9キロが平成10年3月に開通。国道175号線との直結により、舞鶴宮津方面への交通アクセスが極めて便利になった。この国道を大江町から宮津へ走る途中、岡田由里で「旧岡田橋河川水辺公園」の標識を見つけた。
 由良川の支流、岡田川に架かる旧岡田橋の建造は、琵琶湖疎水で有名な田辺朔郎博士の設計と言われ、明治21年に長さ16.7メートル、幅5メートル、西欧の近代的な土木技術を取り入れた工法により、花崗岩を積み上げた珍しい石の橋である。それゆえ、すでに撤去された地頭の桧川橋とともに美しいアーチが2つそろった「めがね橋」との愛称で親しまれてきた。
 その後、国道は改修されたが、貴重なこの橋だけは石造の力強いアーチに支えられ、百年以上の風雪にも耐え抜いて、今なお水辺公園の中に生きている。「橋」が取り持つ縁(えにし)…。ジューン・ブライドに幸あれ!と。



NO.45 遺跡の「下森神社」(女布)   

 女布(にょう)は、古くは「祢布」と記し、アイヌ語の村の意。かつては純農村地帯であったが、特に近年ベットタウンに変貌した。
 城南中を西へ500メートル余り進むと北に入る農道が1本。この分岐点に「下森神社」と太く刻まれた大きな標石が建っており、この道約100メートルの所に神社が祀られている。
 昔、境内は狐狸の住む大木の森なるも、戦後は村中に区分け開墾して畑地に。南北約100メートル、東西約200メートルの台地は、なぜか頭を女布集落に向けた亀の形とか。下森神社は九社明神、日原神社の御旅所に当たり、ここが西地区の中心集落遺跡と言われる下森丘陵なのである。
 神社を中心に1500平方メートルの面積を平成3年から第3次にわたる発掘調査が行われ、弥生〜古墳時代の竪穴式住居跡や打製石斧、飛鳥〜奈良時代の大規模な倉庫群跡などが確認されている。さらに近くには、森脇宗坡が城主「女布城」跡もあり、あの大蛇退治の由来も…。
 女布は筆者の生まれ故郷。森さんで遊んだ幼い日々が、またブーメランのように返ってきた―。



NO.44 逆さ杉(鹿原)   

 青葉山を前方に見て鹿原の橋を過ぎた左手田んぼの中に、市史伝説の「逆さ杉」がある。白鳳十年の北国地震で青葉山が崩れ、山中の大杉が流れ出て生えたという。
 また一説では、地表から根を出したような形に見えるので、「逆さ杉」と呼ぶ。現在、樹齢560年余り、樹周3.6メートル、高さ10メートル。枝葉幅は13メートルもあり、地元では杉木大明神の祠を祀り、伝説を今に伝えている。
 その昔、飛騨の国生まれの比丘尼(びくに)「おはつ」は、何百年経っても娘の若々しい容貌で仏に帰依し、布教や殖産に努め、160年余り鹿原で巡錫。その後、八百歳近い高齢となり若狭の国の空印寺へ…。その折りに、小杉を逆さに植えたという八百比丘尼伝説には奥が深い。また、この杉の小枝を枕元に置けば子供の夜泣きなどの癇の虫に効果あり。
 杉の語源は「直ぐの木」なのに―直立して成長する「杉の木」とは、無縁の珍しい「杉の話」を見た思い。
 (註 八百比丘尼は尼僧で人魚の肉を食べ、娘のままで八百歳まで生き、各地を巡歴したという不老長寿伝説)



NO.43 水源地の放水路(与保呂)   

 新緑に誘われて、日尾池姫神社から500メートル上流の与保呂水源地へ―。  浄水場の端まで進むと、貯水池の放水路から勢いよく滝の音が響いてきた。溢水は、落差2メートルの石張り16階段を一気に駆け落ちて与保呂川へ。まさに「階段の滝」を見事に演出している。
 岸谷貯水池は旧海軍の軍用水道として築造され、大正10年6月、容量21万立法メートルの土堰堤(えんてい)が完成。現在、容量18万1000立法メートル、給水能力は1日6800立法メートル。桂貯水池と合わせて着水井(せん)、ろ過池を経て浄化され配水へ。南舞鶴地域5000戸の水ガメである。
 場内に入ると、かつて桜の名所として賑わった100本の桜の姿はないが、取水隧道(ずいどう)には名和中将の題字「盈科(えいか)」(水が穴に満ちること=学問は努力の積み重ねによって成るのたとえ)が刻まれ、重々しい。
 また、周りを望めば「与保呂水源の森」全国100選にふさわしく、山々が目前に迫り、昔から守り育てられてきた森林の恵みを肌で感じる…。雨季に増水、排水量はお天気まかせ。滝のしぶきと涼風と深い緑に囲まれた放水路の景観は夏のオアシス。やがて「おいしい水」の話題が各地を馳せる6月1日から「水道週間」。



NO.42 「伊藤雋吉」顕彰の碑(宮津口)   

 田辺藩と縁の深い瑞光寺の裏側は宮津口。当時、「橋西」一帯は武家町として栄え、足軽長屋が並んでいた宮津口の道路脇に、御影石の顕彰碑が1基。高さメートル、幅21センチの碑には、「海軍中将正二位男爵・伊藤雋吉(しゅんきち)誕生の地」と刻まれ、郷土の誇りを次世代へ…を旨として昭和63年1月、生家の一角に地元の顕彰会によって建立された。
 同会の資料によると、伊藤氏は天保11年(1840)、田辺町(現宮津口)の生まれ。幼名を徳太(とくた・後に改名、明治維新後は雋吉)といい、幼児から和漢書を読み解き、特に数学に堪能で問題を与えられると瑞光寺の墓地で解いたという。やがて藩命により江戸へ出て、蘭学・兵学・数学を学び、海軍へ。「筑波」の艦長などを務めた後、海軍兵学校長、海軍次官(中将)を歴任。その後、貴族員議員、男爵、正二位に叙せられた。
 詩文に長じ、書は巧みで艦名の字など多く残した。また、舞鶴出身で爵位を受けたのは牧野元藩主と当人の2人だけ。「草葺続く宮津口、伊藤海軍中将の、生家を訪(と)へば松枯れて、株(くひせ)に蒸すや苔の花…」と舞鶴唱歌に歌われた希代の希代の逸材・伊藤男爵が没して80年余り。碑は、町の歴史を語りながら郷土を育んで15年目を迎えた―。



NO.41 清流の「わさび園」(杉山)   

 「ようこそすぎやまへ」 道路壁画のある杉山地区へ車で登る。海抜約250メートルの青葉山中腹に位置する杉山は、全戸数15軒の山間地。
 「杉の清水」で有名な大杉神社のすぐ下には、この清水で栽培されている珍しい「わさび園」の立て札があった。
 山の清水は、古来より枯れることなく脈々と湧き出ており、水温は年中11度前後と不変。湧き水の清流が谷川となり、その流れに沿って「わさび」が自生し、長さ50メートルにわたる谷川が「くの字」に「わさび田」を形成している。
 栽培への長い歴史の中には、出荷して村の財政を支えた時代もあったという。数年前、川の床の敷き直しも行われ、今日に至っている。
 「わさび」はアブラナ科の多年草、高さ30センチ、根茎は円柱状で谷川のほとりに繁茂し、春には花茎の先に白い四弁の花が咲く。
 各年、秋から冬に採取されているこの本物の「山葵」は、村の管理のもとに育てられ、香り高い杉山の名産としても有名。



NO.40 荒木邸(大川)   

 由良川左岸にある大川神社は、最も由緒ある平安初期の大明神。災禍を避けて山裾に並ぶ民家より一段高い鳥居をくぐると、荘厳な境内にマッチした茅(かや)ぶきの旧家「荒木邸」がある。
 間口8間(14.4メートル)、奥行き4間(7.2メートル)、丹後地方の代表的な民家で、「格調高い入側縁の造作と立派な妻飾りを持った家」として、「京都府文化財図録」にも登載。チョウナ削りの柱、クギを使わない建築様式は文化財的価値が極めて高い。昭和6年に棟札が見つかり、田辺藩との関係や3、400年経っていることも立証された。しかし、茅の確保が限界であるともいう。
 筆者は、縁あって当主荒木英文氏の招きで本家を訪ねた。広い土間、年季の入った踏み台。「控の間」から奥座敷の「中の間」へ。さらに茶室、田辺藩主の休憩所「奥の間」に着座した。黒光りの違い棚や金箔の小ぶすま。障子を開けると、部屋を囲む広縁の向こうに築山が、幾重にも広がって栄華の姿を今に伝えている…。
 大きなカメには季節の生け花。お茶のもてなし。日本人ならではの伝統と、時を語る談義に「ふるさとの心」が尽々と蘇るひとときだった―。



NO.39 平の桃園(平)   

 「花だより」は駆け足。梅から桜、そして桃の花へ…。大浦小から300メートルほど赤野方面へ進むと一面の田園地帯が広がり、農業構造改善事業の記念碑が建っている。その手前の桃園では、今が盛りと燃え立つような桃の花が満開。桃染のピンクと白いブリッジ。海との色調が美しい。
 広さは15アール。7本の畝に立ち並ぶ桃の木は約180本。早生(わせ)の勘助や一番遅い黄金桃など収穫期を調整した4種類。7月中旬から8月下旬が正念場。今年で20年目を迎えた。つまり昭和56年、平、赤野地区ほ場整備を機に「桃園」が誕生したのである。
 桃は排水と深さが肝心。土壌の水分を除くほど甘い実を結ぶ。このため、畝の底には竹の筒を埋め込み、盛土して高畝に。五弁の花から着果へ、間引きをして梅ぐらいの大きさで袋掛けしていく…。あとは虫から実を守り、収穫期に雨が降らないように祈るのみ―。
 桃は中国が原産。1本から150個の実をつけ、50年は収穫できるという。「桃栗三年柿八年」。水田からの土壌づくり、3歳児の感動、20歳になっても育て親の心の心配は拭えない。華やかな春が秘める「親ごころ」。



NO.38 大波街道の桜(大波下)   

 桜の名所もいろいろあるが、ドライブして楽しめるのは大波街道。
 そこで、通勤時など毎日挨拶を交わすこの「沿道の桜」のルーツとは如何か―と。  舞鶴の基幹産業、日本板硝子舞鶴工場の創立は昭和27年。その後、昭和32年11月25日、「支部設立5周年記念」として、工場から自衛隊舞鶴教育隊までの約2キロの沿道に、桜の苗木230本が代表職員によって植樹されたと報じている。
 さらに忘れもしない34年9月25日、死者不明者5000人を超えた伊勢湾台風が舞鶴にも来襲し、各河川が氾濫。市内全体で680戸も家屋が倒壊や流出する大災害が発生し、当然板硝子も非常事態となった。その時!職員が一丸となって工場の設備や機械、生産ラインを見事に守り抜いたのである。その功績の褒賞金が桜並木の植樹と整備に充てられたという。
 昭和から平成へ。海岸と沿道の厳しい自然の中で耐えた桜は80本。その1本1本の桜に込めた「真心」が美しく輝いて、花が何倍にも膨らんだ「桜ロード」の実話物語。



NO.37 友好平和の「アロハ桜」(中舞鶴共楽公園)   

 桜の名所「共楽公園」へ。山頂西側を下ると万国旗と白いアーチに、日米の国旗が掲揚された桜の木があった。これが「アロハサクラ」。
 終戦直後の軍港の町舞鶴市は、大きな転換を迫られ荒廃していた。当時の新聞によると、舞鶴に進駐した米軍320人のうち、ハワイ出身の2世兵士23人が、市民のオール舞鶴と親善野球試合を申し入れ実現した。
 その夕食会で「私たちは不幸にも日本人と戦争をしたが、日本は父母の国だ。繁栄と友好のしるしに桜の苗木を贈りたい」として、昭和21年春、約100本のソメイヨシノがここに植樹された。そして今日、桜のリーダー樹として育っている。
 その後、この2世兵士らは、朝鮮動乱の勃発で出陣し、異国の土と化したとあり、市民はこれを「アロハサクラ」と名付け、日米友好のシンボルに。
 このように、2世たちが父母の祖国日本に平和と復興への願いを込めた「友好と平和のサクラ」である、と碑(昭和48年建立)にも刻まれている。
 歴史を物語る貴重なアロハ桜。



NO.36 榎川の桜トンネル(余部上)   

 中舞鶴を縦断する国道27号線の山手南側には、道に沿って東西に流れる「榎川」がある。
 幅5メートルほどの川底には石畳が敷かれ、昭和28年の災害で川岸はスマートに変身し、ちょっとイキな感じ。その長さは1丁目から9丁目まで全長およそ500メートルにも及び、川をはさんだ南側には、100本ほどのソメイヨシノが立ち並んでいる。樹齢80年の古木も多いが、昭和53年には5年もの20本が植樹された。
 開花は低地域のためか、共楽公園より早く、平年で4月5日ごろ。シーズンになると古木が川に枝をのばし、「花のトンネル」となって風情に一興あり。戦前は、この川沿いにゴザを敷いて酒盛りをしたとか。しかし、ここの魅力は、何と言っても榎川のそぞろ歩きが最高。
 このほか近隣の「桜だより」はたくさん届けられるが、あまり知られていないもうひとつの桜の名所といえよう。



NO.35 灯明照らす「常夜燈」(京口)   

 その昔、京街道の京口を歩くと当時を語る風情あり…引土から寺内へ。K旅館の先には常夜燈が1基、今もなお、そこに建っている。
 高さ約2メートル、台座30センチ、材は柱が栗で灯籠は観音開きの檜づくり。しかも夜になると、町内隣組8軒によって毎日絶やすことなく、愛宕山の秋葉権現様に向かって、ローソクの明かりが灯されているという。
 これにはわけがあった―。ときは昭和8年7月10日未明。「わら灰」が原因で火災が発生。隣組民家7軒が大火に見舞われたのである。以後、火災から守る防災祈願として、点灯を復活させ今日へ。その順番は竹の棒先に木製の当番札を回して決まり、明かりを入れると「奉祈念・秋葉三尺坊火災消滅所」の御札が浮かぶ。
 これらの常夜燈は、明治の初期、秋葉信仰で各町内に30余り建立されたが、残っているのは京口、平野屋と西町の3基だけ。中でも灯明を照らす「常夜燈」を絆で支える風俗の伝承には頭が下がった。



NO.34 古今伝授の松と心種園(舞鶴公園)   

 室町時代の智将といわれ、歌聖とうたわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)織田信長から丹後の国をあてがわれ、その子忠興父子によって築城された田辺城は、以後京極氏から牧野氏の居城となって明治維新に及んだ。
 現在、この城跡は「舞鶴公園」として桜、バラなどの名所となっている。慶長5年(1680)関ケ原の役に際し、東軍に与した幽斎がここに籠城し、二ノ丸の老松の下で「古今和歌集相伝文書」に
 古(いにし)へも 今もかはらぬ世の中に 心の種を 残す言の葉
 の一首をそえて勅使に渡したが、後に牧野氏が藩主として入城し、老松のある庭の跡を偲び、下の句にちなんで「心種園」と命名したという。なお由来は碑に詳しく記されている。
 (註 古今伝授=古今集の中の難解な箇所の解明を師弟の間に伝授すること)



NO.33 メロディーブリッジ「三安橋」(行永)   

 国立舞鶴病院前の与保呂川に架かる橋は「三安橋」。渡るとき、欄干の鉄琴をマレットで順次叩けば、「うみ」と「夕やけこやけ」のメロディーが…。また、左岸の袂(たもと)には建設大臣からの「手づくり郷土賞」の銘と、右岸の親柱に短歌が刻まれており、思わずこの「粋な橋」に興味がそそる。
 さて、この橋に秘められた由来とは―。昭和15年12月、舞鶴海軍病院が北吸から現在地へ移転してきた時に架けられたもの。当時の病院長・芋川千秋海軍医少将は「このはしを渡らむ人の身安かれ心やすかれ家も安かれ」の歌を詠み、これに因(ちな)んで「三安橋」と命名されたという。
 その後、平成2年の架け替えで歩道を設け、幅員12メートル、長さ30メートルの中にメロディーを奏でる近代的な橋が竣工した。しかし、身・心・家の3つの安らぎを歌った筆跡だけは当時のまま。
 つまり、この橋は幾多の変遷を経てきた人々の熱い想いを「メロディーに架けた橋」そのものなのである。
 (註 当時、同病院構内にあった守護神も「三安神社」名として、今は大森神社境内に祀られている)



NO.32 大山の梅林(大山)   

 大山峠を越え、旧道へ少し入ると丘陵地が開け、一面の梅林地帯が広がっている。
 この梅林は、昭和56年、自然休暇村整備事業として開墾し、ここに約200本の梅が植樹されている。面積1.1ヘクタール。梅の種類は4種類もあり、開花のころには、紅梅白梅など各種の梅が順次咲き続く…。その理由は交配を絶やさず、確かな実をつけるための意図があるという。
 ここで採取された梅は、梅干しや梅酒などに加工され、今では地元の特産品として好評とか。減塩梅干しや小梅など地元の無人販売所にもあるとのこと。
 花の見ごろは、平年で2月の下旬。小高い丘の山全体が、色とりどりの梅の花で覆われ、梅の香りの別天地と化する。手前には民話の「大椎木」もあり、梅の花見には最適である。
 厳しさ続く丹後路に、ひと足早い春の「梅だより」。もちろん、お土産は地元直産の梅干しをどうぞ。きっと「ふるさとの味」が楽しめるかも。



NO.31 大江選手のポール(白糸濱神社から市政記念館へ)   

 水無月、えびす、稲荷の3神社が祀ってある白糸濱神社の鳥居正面の拝殿に1本の「棹」が奉納してあった―。太さ一握りくらい、長さ3メートルの竹製で、これが舞鶴市出身のオリンピックメダリスト大江季雄(すえお)選手が使っていた棒高跳びのポールである。
 大江選手は昭和11年(1936)、第11回ベルリン大会で棒高跳びに出場し3位となったが、2位の西田修平選手と4.25メートルの同記録であったため、2・3位を分け合い、銀と銅のメダルを2等分してつなぎ合わせ、「友情のメダル」として、スポーツ界不滅の美談となった。
 このポールは、大会後はじめて舞鶴へ帰り、10月20日郷土の声援に応えて、新舞鶴校で妙技を披露した後、ここに奉納されていた。その後平成8年8月、舞鶴市政記念館に大江選手のコーナーが開設され、この記念のポールもここに展示されるところとなった。また、記念像は西舞鶴高に建立されている。
 オリンピックイヤーが巡り来ると、偉業を遂げた地元の英雄大江選手の話題が、また再燃する。



NO.30 才之道神社(行永)   

 七条通りを菅坂方向に進み、与保呂川と椿川の合流する亀岩橋へ。その右手前の細い村道を下がって行くと、民家の中にみごとな巨木で囲まれた森のような社がある。
 巨木は2本あり樹齢300年。周囲7メートルもあるタブの木のご神木が、大きな枝を張り社を守っていた。
 道路に面した鳥居には「才之道神社」の額が掲げられ、地域ではここを「才之堂(サイノドウ)」と呼んでいる。境内をのぞくと、正面に小社(才之神)と左に秋葉・愛宕の摂社2社の祠がある。
 古事記などによると、この「才之神」は本来「塞の神」。つまり、「才」の時は「塞」の略字を用いたもので、行人を守る「道祖神」のこと。位置的にも行永村の南口にあり、この道が北の大森神社への入口になっていることに気づく。
 また、才の字から「村の砦」だけでなく、子供に智恵を授ける神としても信じられ、宮参りには大森神社から才之堂コースへの習慣も。身近かで親しめる村の神社である。
 (註 祭礼は毎年7月28日に執り行われます)



NO.29 巨岩「天狗岩」(引土)   

 高野川にかかる茶臼山橋を渡ると、南北に愛宕山へ山麓が続く。思い切って半田焼きがあった正面の引土小田のコースから一路、「天狗岩」をめざすことにした。
 段々の山畑に沿って山頂へ向かうと、やがて3尺ほどの狭い山道に。さらに生い茂るやぶをかき分けて登って行けば、中腹の平地に辿り着く。
 そこでホッと一息を入れたその時、5メートルもある巨大な岩を見つけた!岩は幾つも重なり合って点在し、中には10メートルもの巨岩が渓の方向にそそり立っている……。まさに、これが「天狗岩」の巨岩群である。
 岩に登るとさすが江戸時代の絵図にある景勝地。眼下に西舞鶴高校。遠くは五老岳から青葉山、弥仙山の姿も眺望できる。
 また、付近には五世紀ごろの古墳もあり、田辺藩にまつわる小男稲荷もこの小社に祀られていたという。されど、この天狗岩!名前こそ知っていても実物を見た人は今は少ない。
 見事な「巨岩」だけに「ふるさと再開発」が待たれる名勝地かも。
 (註 天狗岩は標高百数十メートルのところにあり、登ると30〜40分くらいかかります。道が埋まっているため登るのは無理と思われます)



NO.28 和田海岸の龍宮城(西舞鶴湾内)   

 中舞鶴の余部下舞鶴線は、加津良、和田を経て二尾へと続く。以前、海水浴場でもあった海岸からは、港湾が広がり眺望は天下一品。藤の森から50メートル西の地点、つまり中と西舞鶴の境界線でもあるこの海岸から約70メートル沖の海上に、高さ5メートルほどの赤く浮き出た「龍宮城」が見える。
 今から30数年前、議員であったI氏は舞鶴観光の拠点として、ここに龍宮城をつくり、正面の五老岳山頂までをケーブルで結ぶレジャー開発計画を立てたといわれる。  浦島さんが山頂から龍宮城の乙姫さまに…はては亀に乗って舞鶴湾一周の旅へ…再びレストハウスへ…等々、ロマンの世界は無限!
 やがて工事に着工し龍宮城は完成したが、以後資金不足により中止されたらしい。ふるさと創生への夢!
 当時のロマンあふれるこの情熱は見事なものがある。



NO.27 彫刻二題(明倫緑地)   

 田辺城から田辺藩の学問所であった明倫校の正門を経て西へ歩くと、国道27号線に沿って明倫緑地が南北に続いている。散策のつもりで中へ入ると、2つの彫刻の女性像が設置されていた。
 北田辺側の像は「はな」=写真右。平成4年4月に完成したもので、新潟県在住の彫刻家茂木弘行氏の作品。高さ2.25メートル。女性が手にした一輪の花を眺めている姿の彫刻である。
 また、南田辺側には高さ2.42メートルの女性立像で、題は「祥」=写真左。文字どおり、吉事のきざしやよろこびがイメージされている。作者は女流彫刻家で有名な笹戸千津子さんの作品である。
 これら南北に位置する2つのブロンズ像は、いずれも緑の公園にゆとりとうるおいを与えている。いにしえを語る城下町「舞鶴」。田辺城の天守台跡や彰古館の歴史と文化を語りながら、彫刻作品を見て歩く散策には最適地か。



NO.26 ブロンズ像「まいづる」(舞鶴市民会館)   

 西舞鶴地区は、かつて田辺藩が治めた城下町。町並みや建物にも歴史の重みがある。その中にあって、JR西舞鶴駅から徒歩で約10分……三の丸通りを北進すると、明倫小学校の北川に白い大きな建物がある。文化施設の市民会館。
 その会館の右側正面には、女性が右の手で空に向かって大きく羽ばたいたブロンズ像が建っている。題名は会館に似合う「まいづる」。全体の高さは4メートル、台座だけでも1.8メートルもあり、実に巨大である。
 像の作者は、仁科会会員の日高正法氏によって製作され、躍進する平和産業と港湾都市「まいづる」を象徴している。また、題字は当時の佐谷靖市長の力強い直筆。
 昭和43年、ここに会館が建設された記念に、ライオンズクラブにより寄贈された。
 毎年、東西交互に開催される成人式の日には、多くの若者が未来の夢を託して、このブロンズ像の前で記念撮影をする二十(はたち)の門出の場所でもある。



NO.25 銅像「有本國蔵翁」(三の丸)   

 西総合会館は公園隣に位置した一等地。以前ここには舞鶴随一の大殿堂「公会堂」が建っており、今はすっかり様変わりした感じ。しかし今も変わらないのは、舞鶴が生んだ大実業家「有本國蔵」の銅像である。
 有本翁は萬延元年(1860)、平野屋で7人兄弟の末っ子として生まれた。12歳で丁稚奉公、18歳で大阪に上がり24歳で洋服商を開業した。いわゆる「舶来屋」である。
 このころ洋服屋は、軍隊から民間へと大衆に流行した時で、翁はみごと流行の波に乗り、店はますます繁盛し拡大していった。こうして翁は、大実業家になると共に洋服の先覚者として名を成したのである。
 後に田辺城櫓、図書館などを寄贈、さらに昭和11年には巨額を投じ、この場所に舞鶴公会堂を建設し、郷土の発展に尽くしたという。
 翁の信念と商売の秘訣は常に「正しく努力して商いすれば、破れて悔ひ無し」であったと書物に記されている。この像は、まさに舞鶴市の偉人の一人である。
 なお、会館の中には翁の展示コーナーも設けられている。



NO.24 岩室稲荷神社(吉坂)   

 商売繁盛と五穀豊穣の守護神ならば「稲荷神社」へ―。
 JR松尾寺駅の北側に、赤い鳥居が立ち並んだ稲荷大神がある。2つの社から山へ400段、信者から寄進された幾十もの鮮やかな鳥居を潜ると奇岩の社殿に。このくぼみの岩室が「岩屋大明神」である。
 伝承によると、藩主牧野家の信仰も厚く、参勤交代に同道してこれを守護し、信者は藩主内の若狭の国西部に限られ、現世のご利益のための信仰と若狭湾の漁業振興の祈願や、疱瘡(天然痘)にも効き目があったという。
 また、稲荷神の狐については八幡神の鳩、日吉の猿と同じく、住みついた白狐が白髪の老人となって、村人に吉凶を告げた話とともに、霊狐(れいこ)として扱われている。
 なお、この神社は約260年前、伏見稲荷総本社より分神し、岩窪稲荷大明神となったものである。
 また、稲荷神は農耕に深い関係をもつ神ではあるが、漁業振興に伴い関係者への信仰も浸透している。



NO.23 東郷元帥の「一心池」(余部下・司令長官邸)   

 中舞鶴の交差点から東へ100メートル先を左に逸れて上がると、旧水交社(現在公務員宿舎)があり、その西側には「日露戦争の日本海海戦」で有名な、東郷平八郎元帥や歴代の司令長官が居住していた旧長官の官邸がある。
 明治34年10月1日、舞鶴鎮守府が開庁され、初代長官に東郷中将が着任した。東郷元帥は約2年間の在任中、官邸の庭に小さな池を作り、これを「一心池」と名付けた。そして忙しい実務の疲れをこの池でいやし、静かな水面を眺めながら対露戦争の秘策を練ったと言われている。
 池の広さは100平方メートル、心の文字を型造り、そのかたわらには昭和16年当時の小林宗之助長官が元帥の意志を継ぎ、与保呂で採れた自然石で「東郷元帥、一心池」と彫り込んだ石碑もある。
 すでに100年が経過した今、旧海軍の歴史を後世に伝える貴重な遺跡である。



NO.22 彫刻「朝」(浜)   

 おお、朝よ!なんと若々しく、さわやかなことであろう。ちょうど、朝日の出のように―。ポーズからは軽妙なリズムを奏で、完璧で非の打ちどころがない。
 このブロンズ像は、高さ2メートル、幅66センチ、奥行き50センチ。昭和17年第5回文展に入選した作品で、彫刻界まれに見る名作のひとつである。
 作者は、若くして戦場に散った不遇の天才彫刻家と呼ばれる大飯町出身の松木庄吉氏(大正3年〜昭和19年)。29歳の時の作品である。
 氏は昭和18年、太平洋戦争の招集のとき、敵の爆撃から作品を守るため、東京から舞鶴の知人にこの作品を送り預けたという。また、この彫刻は、昭和18年に建築された舞鶴公会堂(旧舞鶴海軍館)に献納されていたが、石膏像であったためブロンズ像にして現在、浜の総合文化会館に建立されている。
 「精進せよ、精進せよ。己がよしと信じたことを励め」と、氏の作品は語り続ける―(水上勉・絵本松木庄吉より)



NO.21 一本松地蔵(伊佐津)   

 池内川と真倉川の合流地点には九枠橋が架かっている。「伊佐津川水辺のみち」を360メートル下ると地蔵さんが安置された祠を見つけた。その中の、高さ100センチほどのやさしい顔をしたお地蔵さんには、こんな由来が―。
 その昔、藩内には3本の川が合流しており、雨が降るたびに川が氾濫し、田辺城まで泥水が広がった。そこで藩では、池内川と真倉川を合流させ、舞鶴湾に注ぐ「伊佐津川瀬替え」の築堤工事を、庄屋の長佐衛門に命じたのである。
 庄屋には年ごろの美しい娘があり、いつも父親のもとへ弁当を運んでいた。やがて娘のことは人夫たちの評判となり、このため工事ははかどらず遅れるばかり。「あの娘さえいなければ……」とある夜、藩の役人が娘を秘かに斬り捨てたという。
 こうして伊佐津川は完成したが、村人たちは犠牲になった娘を哀れがり、堤防脇に石地蔵を建て、松を1本植えて祀ったお地蔵さんの話。
 散歩の途中、合掌してひと休み。これで、道往く人もひと安心か―。



NO.20 恵比須さま(丹波町)   

 「恵比須(えびす)さま」は七福神のひとつ。その像は狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬき)、風折(かざおり)、烏帽子(えぼし)、鯛を釣って福々しく、いつもニコニコしてござる―。その「えびす市」は商店街が年中で一番にぎわうときである。
 明治18年、旧舞鶴町在住の魚を扱う有志によって、舞鶴海産物合資会社が設立され、京都の建仁寺から恵比須神社の分霊を舞鶴へ受けて帰り、魚屋北浜にお祀りした。その後遷座、ここ丹波町に鎮座されて今日に至っている。
 祭礼は、恵比須大神が海から陸へお出になる11月20日に行われ、伊根、田井、成生の大敷三漁場から献魚がある。祭りの3日間は、名物の植木市や露店が並び、丹波町から西の通りは、1年分の衣類や日用品を求める買い物客で埋め尽くされた。
 昔に比べると「えびす市」も様変わりしたが、ここにその由来があり、この通りを別名「恵比須通り」ともいう。えびす市は今月(11月)23日から25日催される。



NO.19 安久焼の狛犬(長浜)   

 長浜のほぼ中央、舞鶴湾に面した三差路にある高倉神社は、中舞鶴30町内でお守りしている最大の氏神。その正面両側には「魔除け」として、細身の体型で奇怪な顔をした狛犬1対がいる。
 阿形(あぎょう・31センチ)は左腰に、吽形(うんぎょう・32センチ)は右腰に、「あこ村におき、ひせんつぼやき衆き志ん仕申候・慶長18年(1613年)・・・」と記されている。
 これは、銘文どおり当時の安久村(西地域)で窯業に携わっていた備前の工人たちによって製作され、それを初窯の作品として奉納したもの。これぞ桃山時代の「安久焼」の名で呼ばれる名作そのものである―。
 現在、窯跡は接収され確認できないが、記名のあるのはこの狛犬だけ。真っ赤に着色された犬の姿は、獅子を連想させてくれる。
 境内は氏子の奉仕で大変よく整備され、秋季大祭には高倉太鼓を先導にして、余部神社を折り返す神輿が練り歩く。市指定の文化財のひとつ。



NO.18 日尾池姫神社(与保呂)   

 その昔、多門院に「おまつ」と「おしも」という美しい姉妹がおり、2人が与保呂へ草刈りに出かけたある日、美しい若衆に出会った。以来、この若衆の姿が「おまつ」の心に深く刻まれたそんな時、「おまつ」に縁談が持ち上がり、彼女は行く末を悲観し、池に身を投げ大蛇に化したという。
 それからは大蛇が仇をするという噂が広まり、村人がこれを退治しようとモグサで牛を作って食べさせた。すると蛇は火に苦しんでのたうち回り、池は大洪水となった。その時、「蛇」が岩に当たって3つに割れたという「蛇切岩(じゃきりいわ)」もある。
 以後、村人は蛇の祟りを恐れ、頭部を日尾池姫神社に、胴は田の宮、尻尾は大森神社に奉納した。現在この神社には、おまつの因縁で松は1本もない。このように「蛇」にまつわる話はいろいろあるが、ここもそのひとつ。



NO.17 神崎の穴観音(東神崎)   

 古代に神がよりついて開かれたという神崎は、田辺藩の塩浜であった。その白砂青松が続く海水浴場のはずれに、洞穴遺跡を思わすような穴観音がある。大きな岩がもたれあって口を開き、中には観音さまなど3体と両側に地蔵さんが祀られている。この観音像は約1300年以上のもので、海を渡ってきたのでは―との鑑定も。
 ある日、目の見えない母親の夢枕に、3体の観音さまがお立ちになり、さっそく娘が母親と共に探し当てたのがこの穴観音。祈願のおこもりをした万願の日、目が見えるようになったという伝承がある。
 諸病に効験あらたかなるも、中でも女性に因んでの霊験が広められ、特に1つの願いを頼めばご利益ありとのこと。入口周辺の地蔵群は由良川の改修の時に出てきたものである。



NO.16 C58蒸気機関車(中舞鶴駅跡地)   

 明治37年、阪鶴鉄道の開通とともに、軍港引込線といわれる新舞鶴駅(東舞鶴) から東門(北吸)を経て、余部町(中舞鶴)の軍港施設に至る専用路線が敷設された。 いわゆる「遊歩道」の終点が中舞鶴駅の跡地であり、ここに1両の蒸気機関車が展示 されている。
 機関車番号「C58113」、動輪三対を構えた勇姿である。機関車の重量は53・ 6トン、動輪の直径152センチ、最大速度85キロと記されており、興味深い。
 また、昭和14年12月大阪で製造され、以来32年間に舞鶴線・宮津線・山陰本 線など、地球の約55周に相当する221万キロを走り続け、昭和45年10月、宮 津線のディーゼル化に伴い廃車になった。
 第2次世界大戦中には、海軍工厰への発着でにぎわった中舞鶴線が廃線となって、 今は遠い昔になった。石炭を焚きながら大活躍したこの蒸気機関車も、往時を偲ぶ 「貴重な舞鶴の宝物」の一つと言えないだろうか。



NO.15 舞鶴引揚記念公園   

 平桟橋があった丘の上に舞鶴引揚記念公園がある。その公園入り口に高さ3・4メー トルのブロンズ製モニュメント(記念像)が建っている―。  女性がハトを両手でささげている姿を現し、引き揚げの歴史や平和、戦争の悲惨さ と平和の尊さ、異郷で倒れた人々の鎮魂などを語り合う意味で、「語らい」と呼ぶ。  製作者は、シベリア抑留経験者で舞鶴へ引き揚げてこられた彫刻家、早川収氏(仁 科会)。平成2年4月に完成、除幕された。  ところで対岸諸国との友好を促進している舞鶴市が、ナホトカ市(ロシア共和国) と姉妹都市を提携したのは昭和36年6月。その30周年を記念してナホトカ湾を見 下ろす展望台に、これと全く同じモニュメント「語らい」を「ミール(平和)」(早 川氏作)と名付けて、ナホトカ市に寄贈。平成3年8月に除幕した。  これで平和の祈りを込めたブロンズ像「語らい」は、世界に2つあるモニュメント となったのである。これからも平和を語るメッセージ基地の役割は大きい。



NO.14 舞鶴平和塔(管坂峠)   

 世界平和を記念し、宗派、思想信条を越えて建立された舞鶴平和塔は、菅坂峠の山 頂に安置されている。昭和58年8月、日本山、妙法寺一門の勤労奉仕と市民や全国 から浄財が寄せられて完成した。
 塔は基底3段、高さ23メートルの塔身は伏鉢式で塔頂にはインド、ビルマから贈 られた大聖釈尊の仏舎利が納められている。
 仏像の原型はインド・サールナイト(鹿野苑〈ろくやおん〉)の初転法(しょてん ぽう)輪像で、顔は日本の鎌倉時代のものに作りかえてあり、台座には車輪を中央に 置き、五比丘(びく)と在家の母子や2頭の鹿が入れられている。言い伝えでは、鹿 は鹿野苑を示し、五比丘は釈尊が最初に説法した弟子たちで、車輪は説法が輪の廻る ように、四方へ広がることを意味している。
 国際親善の願いを込めたこの平和塔は、山頂へのハイキングコースや憩いの場所と しても最適である。



NO.13 殉難の碑(下佐波賀)   

 明治43年の「韓国併合」以来、朝鮮の人々が日本各地で働いていましたが、敗戦 によって解散され、昭和20年8月22日の朝、3725人の一行は「浮島丸」(4 730トン)に乗船し、大湊から釜山に向けて帰国の途についた。
 航行中、船が舞鶴湾内に入った直後の午後5時20分ごろ、下佐波賀沖で突如原因 不明の爆発が起こった。船体は真っ二つに折れて海底に沈み、地元沿岸の人々の必死 の救助活動にもかかわらず、524人の方々が日本船員と共に尊い生命を失った。
 戦争が忘れられつつある今日、この浮島丸事件は、今後も「風化」されることなく、 人道的な立場に立って平和と国際友好のかけ橋となることを願い、追悼の碑が建立さ れているのである。
 また、この実話を題材に1995年、映画「エイジアンブルー 浮島丸サゴン」と して、映画化された。
 今月(8月)24日午前11時から追悼の碑前で、追悼集会が開かれる。



NO.12 一盃水(上福井)   

 舞鶴から国道175号線で藤津峠にさしかかる北側に、身の丈1・8メートルの地 蔵菩薩がある。そのたもとの石段を下った小さな洞の中に、きれいな「湧き水の汲み 場」が用意されている。
 これが、由良川筋から舞鶴へ訪れる旅人たちの口の渇きを癒し、身を清めたという 「一盃水」。
 記録では「舞鶴より藤津に至る街道から福井の村外れの右側、一本の老樹の下に、 石盤を受けて滴々たる情景を湛えて、行人の渇を慰せる…」とあり、正式に申すと 「一口泉銘」。宝永4年(1707)大船峠の改修ができた時に、旅の人の難を助け るために設けられたものである。
 別に末期の水を取ったという悲しい話もあるが、昭和61年、地元の有志によって 「一盃水地蔵」と由来碑が建立され、人々の憩いの名所として、湧き水も整備されて いる。
 175号線を走るとき、ちょっと立ち寄ってこの「伝説の水」を味わってみては如 何…。冷たくて、おいしいこと請け合い。



NO.11 稚児の滝(真倉)   

 国道27号を京都へ向かうと、真倉鉄橋下の右手に不動さんの参道がある。伊佐津 川にかかる一ノ瀬橋のたもとから300メートルほどの山道を進むと、短い橋が見え てくる。これが滝の清流をまたぐ稚児橋で、この上流約50メートルの所に「稚児ケ 滝」がある。
 真倉の不動さんは滝の川沿いにあり、正式には紫竹山(しちくざん)稚児ケ滝不動 明王。安倍宗任(あべむねとう)の子、千世童子を祀る、とある。そのかたわらの懸 崖からたばしる滝は高さ8メートルもあり、2段に折れた清流は、音をたててほとば しり、力強く落ちている―。
 戦いに敗れ、この地に逃れた平安時代の豪族の子供が祀られたことに由来する稚児 の滝は、今も緑が深く、夏でもヒンヤリとして暑さを忘れる別天地。
 小説「白蛇抄」は、ここをヒントとして生まれ、文章中、白蛇の滝不動として登場 することで有名である。近隣で稀に見る「清流の里」であり、ちょっとした「涼」を 求める名勝の地。



NO.10 安寿姫塚(下東の谷)   

 天暦年間(947年)、無実の罪で筑紫に送られた父を慕い、母とともに安寿と弟の津塩丸が下る途中、山岡太夫という悪者にだまされて、母は佐渡へ、姉弟は丹後の三庄太夫に売られ、奴隷にされた。姉は海に汐汲みに、弟は山仕事など毎日むごい仕打ちを受け、ついに2人は堪えきれず屋敷を逃れた。
 津塩丸は和江(わえ)の国分寺に匿(かくま)われ、後に京に上り出世して仇を討った。安寿は太夫の家を逃れ京へ上る途中、由良川の川向かい逃れ、その後中山から下東へ出る坂道で(現在の由良川畔より舞鶴へ至る旧道)、飢えと疲れのため絶命した。この坂を「かつえ坂」と呼んでいる。
 また、建部山のふもとの下東には、姫を葬ったという安寿姫塚があり、毎年7月の夜祭りには、村の青年団によって灯りがつけられ、「かつえの神」として安寿の霊を慰めている。
 森鴎外の小説「山椒太夫」で有名な安寿姫と厨子王丸の悲しい物語のもと。



NO.9 森の真清水(大森神社)   

 舞鶴の夏祭り最大の人出でにぎわう大森神社―。旧若狭街道(白鳥峠)から東地域 に入ると弥加宜(みかげ)神社(通称大森神社)があり、祭神は天御影命(あまのみ かげのみこと)相殿には八幡神が祀ってある。
 その名のとおり、神社への200メートルにわたる参道は、樹齢数100年にもな るケヤキ、エノキ、タブノキなどの大木で覆われており、長い境内は夏の別天地。ま た、本殿の下には霊水「森の真清水」の湧く井戸があり、言い伝えによると国の重大 事や異変が生ずる時には、この清水の一隅から白い水が出るという。(丹後風土記の 説では、昔は与保呂川がこの方向に流れ、その伏流水の水脈にあたる)
 貴重な社殿を取り囲む緑豊かな環境を守るため、京都府文化財の保護地区に指定さ れている。
 毎年7月14日と15日は、大森さんの神社創建の日でもある。



NO.8 道標「若狭街道」(森)   

 東舞鶴駅裏の南西部一帯を「森村」という。ここには夜まつりで有名な大森神社 (弥加宜神社)があり、当地名の発祥地でもある。
 白鳥峠を下り、森村の旧道を東へ来ると、大森神社の横、井根口の岐路に突き当た る―。この岐路には、境内の西側を流れる中川を背に、西国巡礼者のための道案内の 道標が立っており、横には観世音の石碑と地蔵さんが並んでいる。
 道標には?ひだりまつをみち 右田辺道 文政13年庚寅5月日」とある。(1 830年建立)。
 つまり、この「ひだりまつをみち」が若狭と田辺を結ぶ主要街道「若狭街道」なの である。そして、道標により左へ折れ、中川に沿って三安通りへ出て左へ、さらに東 駅西詰めから二条通りへと若狭街道は続く……。
 都市計画で道路や川が次々と変貌していく中で、「知る人ぞ知る」この道しるべ。 振り向いてみる価値はある。



NO.7 赤煉瓦のトンネル(北吸)   

「赤れんが」は舞鶴のシンボルである。その歴史は古く明治34年、舞鶴鎮守府が開庁されてから、次々と多くの赤れんがづくりが築造されている。
 旧中舞鶴線があった北吸トンネルもそのひとつ。全長110メートル。れんがの積み方は見た目が美しいフランス式と異なり、地震に強いイギリス式である。このほか舞鶴線では、伊佐津川橋梁や白鳥線第1真倉トンネルなど、れんが造りの施設が多く見られる。
 いずれも当時、ロシアとの開戦で海軍施設への輸送を強化するため、緊急敷設路線として明治37年に開通、工厰への軍港線とともに活躍していた。このトンネルは昭和47年に廃線となったが、1025メートルの自転車道のオアシスとして今も健在である。
 明治、大正のロマンが香る「赤れんが」の構築物は、「れんが博物館」とともに、 当時を偲ぶ舞鶴の歴史を彩っている。



NO.6 長谷の日限地蔵   

日本海に注ぐ由良川の下流西側に位置する集落「長谷(ながたに)の里」は、国道175号線岡田由里から12キロ、八戸地から10キロの地点にあり、さらに2キロほど渓谷沿いに山径をたどると、「長谷日限(ながたにひぎり)地蔵」がある。
 時が過ぎ、200余年前、この長谷の里の住人井平(いひら)氏が工事をしたとき、偶然にも堆積土の中から地蔵尊を発掘し、さっそく近くの椿の根元に安置した。その後、井平氏は日ごろの苦しみが安らぐよう一心に祈願したところ、満願の3日目にご利益があったという。
 それからは、日を限って願をかけるところから、「日限地蔵さん」として信仰されるようになり、全国的に広がった。特に進学や就職の時期になると、若者の参拝者が多くなり、参拝道の下には清々しい渓流が響く「森林浴」の別天地! 里も過ぎ 山路を行きて長谷の 仏を頼む身こそ安かれ―(信者作)



NO.5 林道三浜空山線(三浜〜野原)   

大浦半島の屋根ともいうべき空山に、三浜から野原を結ぶ5・6キロの林道三浜空山線が走っている。
 この林道は、豊富な森林資源を有する大浦半島の林業の促進、シイタケなどの林産物生産の推進はもとより、保健休養の場として昭和63年から7億円余りを投じて、平成6年7月に完成した。
 大浦ハイランドの手前から始まるこの林道は、道幅5メートル、縦断勾配は平均6%、東西大浦を結ぶ道路として、また自然休養村の魅力を高めるドライブウェイとして最適のコースである。
 やがて、日本海が目の前に開ける空山(562メートル)まで走ると、「ふれあい施設」と称する展望所に到着する―。眼下に野原漁港や舞鶴湾を、左前方には宮津湾や博奕(ばくち)岬が、右にはエンゼルラインや越前岬を望め、天気の良い日は「白山」も見えるかも……。



NO.4 東舞鶴の街  

東舞鶴の町は碁盤の目、南北を歩いていると各通りを示す「艦船」の看板が目につく。  由来は、明治31年に樹立された市街地計画が明治35年11月に完成し、そこで 浜地区を中心に、通りの名を付けることになった―。
 その時、町は京都のような碁盤の目に区画造成されていたので、寺川から与保呂川 の南北の通りを、一条から九条と名づけた。
 また、舞鶴市は海軍の町としてふさわしく、戦艦・巡洋艦など艦種別、建造年代順 に軍艦の名が用いられたという。
 つまり八重山・富士・八島・敷島・朝日・初瀬・三笠……である。そして、道路名 の名付親は、当時の高等小学校の校長さんとか。
 看板には、当時の軍艦の勇姿と近隣の各国語で「ようこそ舞鶴へ!」。それほどに まで「艦船」の呼び名が鮮明に刻まれている「軍港の町」、東舞鶴の町並みである。



NO.3 天体観測ドーム(多祢寺)  

多祢寺から西側の中腹に、お碗を伏せたような白いドームを見つけた。直径3・3 メートル、地面からの高さは3・2メートル、周囲はFRP樹脂で固められた手造り の半円球。これが当地の「天体観測用ドーム」である―。
 中には、固定式の21センチ反射望遠鏡が備えられ、上部は覆い被せ型のスリット が設置されている。これでのぞくと12等星まで見え、特に空気が澄んでいる冬には、 オリオン座の2つの1等星、大犬座からシリウスが青白く光って見えるという。
 このドームは、昭和56年に舞鶴の天文愛好家によって建てられた共同観測所。も ちろん、ドームの立地条件には、空気が澄んでいて、灯が漏れず、暗くて電気が使用 できる場所が最適地。
 ときには宇宙へロマンを求めて、「舞鶴の空」を見上げて見よう。きっと新しい何 かが見えるかも。



NO.2 カヤ(榧)の大樹(鹿原の金剛院)  

鹿原の金剛院は、紅葉の名勝として有名であるが、若葉、青葉につつまれた春の金 剛院もまた格別。
 高岳親王の菩提のため白河天皇が建立したと伝えられ、三重の塔、本堂、雲山閣が あり、塔には多くの重要文化財が収蔵されている。緑の境内を散策していると、必ず 1本の「カヤ」の大木に出合う。
 このカヤ(榧)の木は、天長6年(829)高岳親王の御手植えと伝えられ、カヤ が1000年は保ち難いことから樹齢700〜800年くらいと推定されている。胸 高囲5・3メートル、根回り5・7メートル、高さ22メートルで府下では随一の大 きさ。もちろん舞鶴市指定文化財に指定。カヤはイチイ科の常緑の高木で、針状の葉が2列に並んでつき、4月ごろ花が咲き、秋には長方形の実がなる。種からは油、材は建築、彫刻、碁盤などの材質に使われる。この地は特に秋の名所ではあるが、秋とは言わず、ぜひカヤの緑と新緑の金剛院にもお出かけを―。



NO.1 見事な出来栄え つつじ植栽マーク  

シーズンともなると赤く映え  市の花「つつじ」の名所として有名な東舞鶴公園は、白鳥通りから丸山へ500メー トルの所に位置し、旧名称を「丸山公園」とも言う。  広さは10・7ヘクタール、野球場、テニスコート、陸上競技場なども整備された 広大な総合運動公園。周囲には昭和五十年以来、つつじが植樹され、今日ではヒドラ つつじ、さつき、やまつつじ、おおむらさきなど約25000本で覆われている。  その南側の斜面には、つつじで市のマークが描かれ、ひときわ目立つ。直径は10 メートルもあり、昭和60年に植栽製作されたもので、シーズンともなると赤く映え て「見事な出来ばえ」である。  先ごろは4月下旬から5月にかけて公園一帯が満開となり、訪れる人々の目を楽し ませてくれる。「舞鶴つつじまつり」は、毎年5月のゴールデンウィークに開催。多 くの市民が初夏を楽しむ。

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