田辺城の“外堀”にあたる高野川に沿って野村寺へ。民家は寺下橋周辺と南部に集落し、北西に田園地帯が広がっている。府道を奥へ走ると野村寺橋の袂、右岸に一里塚の石柱と名号塔(みょうごうとう)が目に止まった。側には灯籠と4、5体の地蔵さんも。石柱には「田邊ヨリ壱里」と刻まれ、道標は「右ふくち山、川口、南無阿弥陀佛、道、左、城や、うちくい」となっている。一里塚の起源は中国。江戸の日本橋を起点に一里ごとに築かれ、丹後の国の一里塚では高野川に架かる大橋からの距離を標している。『まいづる田辺道しるべ』(安田重春著)によると、野村寺は藩が川沿いに遡上して行く河守街道で、田辺藩の主要四街道のひとつ。すなわち、由里から高野川左岸に道があり、宝寿寺門前を通って堤防道を上がるとKTRの橋梁へ。田辺絵図では村中で2方向に分かれ、道標が指す右は真壁峠を越えて由良川を上る河守街道。左は城屋から丹波に至る道のこと。また、念仏を唱えて峠越えをする安全祈願と供養塔であった\と。このような里程を記した一里塚の石柱は、3基だけ現存しており、貴重な文化遺産。この日、野村寺橋を渡り、先人が旅した街道を歩いてみた…。曼珠沙華が燃える1本の田圃みち。猿スベリの木の下で地蔵さんに合掌。その昔、「ショウケ田」(ザルの意)とまで呼ばれたこの地も、黄金の“実りの秋”に。
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