舞鶴医師会は昭和41年に東西医師会が統一され、同51年に竣工した北吸のメディカルセンターに拠点を置く。その玄関に東港を望み医学書を読む「新宮凉庭(しんぐうりょうてい)」の像がある。銅像には、京都南禅寺畔にある先生の私学「順正書院」にあったものを(略)先生との因縁深い舞鶴市に寄贈されたものである―と、医師であった佐谷市長名で刻まれている。新宮凉庭は天明7年(1787)丹後由良生まれ。号は鬼国山人(きこくさんじん)。家計が苦しく11歳で伯父から医を学び、才知ある子供と称された。18歳で名声高く開業。しかし、オランダ医学に感服し、24歳で長崎の遊学を決意。これが凉庭大成の第1歩となる…。凉庭は金5両と道中記を首にかけ郷里を出発。このとき田辺藩家老の内海杢(もく)がこれを支援したという。そして、ともかくも長崎で大いに勉強したのだった。その後、京都に戻って開業。洋書の翻訳や著書をまとめる傍ら、府立医大の源流となる医学塾「順正書院」を南禅寺に開き、ここで医学や儒学を講義した。また、医科に8科(内科外科など)を設け、翻訳した蘭方書をテキストに定めて体系的な医学教育を広めたのである。京に来たシーボルトも、凉庭は日本最大の蘭書所蔵家で黄金300両に値すると記している。幕末丹後の名医「凉庭像」には、当市ゆかりの医学史が秘められていた―。
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