古代の郷名「余戸」の名残から「余部(あまるべ)」に。明治20年、軍のため村人が立ち退き山や田を整地して中央に12間の街路を建設した。明治34年鎮守府開庁。翌年に1万1000人の余部町が誕生した中舞鶴―。直線道路が走る上5丁目交差点には昔から交番所があり、その両脇には石を埋め込んだ巨大な門柱が今も居すわっている。1面3尺の角柱、高さ6尺の頑丈さ。これぞ歴代の“番屋”の正門である。明治33年、「憲兵屯所、余内村字余部上に新築移転」の記録から再現すると、ここに陸軍省京都師団の「憲兵中分隊」が設置されたのであった。屯所は写真で見る限り、寄せ棟の瓦葺き2階建て、粋な窓に威厳のある玄関ポーチ。周囲を石積み基礎に高い板塀で囲み、敷地の中は屯所と隊長官舎、奥には数頭の馬小屋と馬術場があったという。憲兵とは、軍規の確立と治安維持、民衆の鎮圧機関であっただけに、市民からは何よりも怖い存在。カーキ色の軍服に長い軍刀をさげた騎乗の警ら姿は、威厳そのもの。また、裏の公園は当時の武道場。柔剣道など心身の鍛練が行われていた建物跡が今も残っている。現在、東署管内には4交番と6駐在所が配置されているが、この中舞鶴交番も重要拠点のひとつ。憲兵分隊から今の交番所に至るまですでに100年以上経過した。この間、門柱はここから1歩も動ぜず“守り”に徹して今日へ…。乞う!いぶし銀のこの門柱こそ、いま求められる「安全」のシンボルに!
|