大和橋を渡って漁師まち吉原へ。漁業を中心に発展してきた吉原は東西に伸び、暮らしは民家の中に走る1本の水路で結ぶ…これが吉原の原風景「入り江」である。
江戸時代、漁民たちが葦を借り、切り開いた入り江は、全長約550メートル、幅8メートルから11メートル、深さは0.8メートルから2メートルもあって西港へ注いでいる。
昔、東吉原の人々は竹屋に居たが、享保13年(1728)に火事を出してこの地に移住。葦が生い茂る低湿地で悪疫が流行し、厄払いのためここに水無月神社を祀ったという。「なるかならぬか水無月さま、かけた願いが今日とける」と舞鶴小唄にもある。
また西吉原では、明治42年5月31日、大火が発生し住宅や舟屋200余棟を消失。そのため「草屋講」を組織して順次、瓦葺きの民家への経緯が…。そして大正時代、機船底引き網漁法を導入し、府下最大の漁港として発展。昭和になってサハ巾とイワシ巾着網が盛んになり、現在は第3種漁港に。動力船が主役である。
入り江は戦後にも改修されたが、かつてはこの入り江からコロで舟を収納する舟屋が100棟も建ち並んで網船が始終往来していたのである。今でも、小型船が係留され両岸に漁業や水産加工の民家が軒を連ねる入り江の営みは、変わらない。明治8年開校の吉原校の校歌にもある美しい西港の“九景ケ浦”に、この「入り江風景」も加えたいほどの、大好きな撮影ポイントのひとつ!
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