海外引き揚げ60周年。フェンスに掲げられた案内板を頼りに現地に立った…。湾に臨む松並木と平地区から海兵団西門の点検所へ続く1本の道。そして大浦中学校(現在の大浦小)から地先海面へ突き出た長い桟橋。その先端の浮桟橋に次々とランチが横付けされた“平桟橋”は、確かにここにあった―。
橋のルーツは、昭和19年の戦中に建てられた平海兵団の施設桟橋で幅員約4メートル、長さ93メートルもあり、正式には北桟橋のこと。引揚桟橋として当初より使用したが昭和27年以降、腐朽により南桟橋に移った。
昭和20年8月15日終戦。その時、海外に残された660余万人の同胞に帰国してもらう事。これが民族の大移動と言われる「引き揚げ」であり、この桟橋が祖国の第1歩を記した“地点”なのである。
引き揚げ開始の昭和20年10月から22年2月までは西港、以後、旧ソ連からの引き揚げの同年4月からは平へ入港。一端、大丹生沖の検疫錨地で検疫して1キロ沖合で停泊。そこからランチに乗り移って“感激の平桟橋”へ―。スピーカーから心を癒す日本のうたが流れる中、「引揚歓迎」のアーチをくぐり、西門の援護局へ向かう。道端には季節の野花が出迎えていたという。
舞鶴では、13年間で引揚者66万余人と1万6000余柱を迎え入れ、この北桟橋からの上陸者は約45万2000人。全体の七割近くを占め、ここで明暗と哀歓のドラマが展開されたのである。
北桟橋跡地の標は風化して、今は土の中に…しかし、この辺りにはあの時の白い花が今も咲くという。戦後60年。すでに引き揚げの姿、形は無いけれど、この「平桟橋」は引き揚げの史実を語り、2度と繰り返さない平和メッセージの発信地点なのである。
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