“細川(ほそかわ)、京極(きょうごく)、牧野氏(まきのうじ)、代(かは)り治(をさ)めし一城下(いちじょうか)、名(な)さへ目出度(めでた)き舞鶴(まひづる)は、昔(むかし)、田邊(たなべ)と云(い)ひしとぞ”と舞鶴唱歌(坂本清幸・作)に。290年間、3代にわたり城下町の拠点として栄えた竹屋町通りから大橋へ。
慶長5年(1600)、籠城記にも「敵の攻撃を防ぐべく大橋の板をはずし…」とあるように、戦略上、高野川を自然の外堀として城下を結ぶ唯一の橋が、この「大橋」(長さ10間、幅2間)である。多数の人々が往来し、両替所や制札も立って賑わった。また、田辺藩参勤交代の道であり京街道の起点として、大橋から1里ごとに一里塚が築かれていたと享保12年(1727)の田辺絵図に…。
橋を渡り、約30メートル四方の「広っぱ」に出る。昔の「コの字」型道路は、明治に寺内より新町への道が作られ、残った4軒の“中ノ嶋”に。その後、取り除かれた広場が現在の「広っぱ」である。この活用が検討され、平成14年、新しい“空間”が誕生。そのオープンスペースに、歴史と地域のシンボル「芸屋台」が盛り込まれている。石に刻んだ芸屋台の見送図や屋台の展示など、当時を再現…。
芸屋台は、江戸から明治にかけて最大の大衆娯楽。子ども歌舞伎の舞台として作られ、その豪華絢爛さを町内ごとに競ったともいう。現在、朝代神社祭礼に参加した10自治会(魚屋、紺屋、寺内、新、竹屋、丹波、西、堀上、本、舞引土)が所有し、田辺城まつりや地域の祭りに繰り出すこともある。
“こころあたりに茶屋あれば、めしを炊かせて喰い逃げするは、ガッテンだガッテンだの口上が…。
これぞ!城下町の「宝もの」。
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