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2006年8月29日

本社など後援「舞鶴リトルシニア会長杯争奪野球」
惜しくも舞鶴は準優勝、優秀選手賞に屋敷投手
 第3回舞鶴リトルシニア会長杯争奪野球大会(舞鶴リトルシニア野球協会主催、舞鶴市民新聞社など後援)は8月26、27日、行永の舞鶴球場などで行われ、地元舞鶴リトルシニアが準優勝した。また、今大会から新たに設けられた上本孝一賞で、最優秀選手賞に優勝した大阪狭山の中川純一選手、優秀選手賞に舞鶴の屋敷充帆投手が輝いた。  大会には、中学生硬式野球チームのリトルシニア関西連盟と東海連盟の2府5県から16チームが出場、トーナメントで優勝を争った。舞鶴は1回戦で岡山を逆転で破り、2回戦の奈良、準決勝の姫路は、コールド勝ちの圧倒的強さを見せた。しかし、決勝では、大阪狭山に序盤から得点を重ねられ、大差で敗れた。  表彰式では、舞鶴リトルシニア野球協会の村尾利博会長が、大阪狭山に優勝杯(会長杯)、準優勝の舞鶴に準優勝盾を授与したほか、両チームの選手に優勝、準優勝メダルを贈った。また、上本孝一賞の最優秀選手賞と優秀選手賞のトロフィーは、上本氏の両親の精治氏(69)と麗子さん(66)=京月=から贈られた。  上本孝一氏は、西舞鶴高校野球部OBで、プロ野球広島カープに入団。現役引退後はセリーグ審判員として活躍していたが、今年5月5日、埼玉県朝霞市の自宅で逝去した。享年43歳。上本氏は、舞鶴リトルシニア協会を設立当初から支援しており、選手のコーチを務めたこともある。両親が、この遺志を次いで上本賞を寄贈した。  村尾会長は、表彰式で、両チームの選手の健闘をたたえるとともに、上本氏が生前よく語っていた「控え選手でもボール拾いでも、今いる場所で一流になってほしい」との言葉を贈った。
 舞鶴リトルシニアの結果。
▽1回戦
 岡 山 1000000 1
 舞 鶴 003101× 5
【岡】藤本、太田―宮本【舞】屋敷―安原▽3塁打=安原(舞)
▽2回戦
 舞 鶴 16102 10
 姫 路 03000  3(5回コールド)
【舞】田岡―金田【姫】松井、服部―大盛▽2塁打=松井(姫)
▽準決勝
 奈 良 00000 0
 舞 鶴 3014× 8(5回コールド)
【奈】小林、谷口―谷口、荒田【舞】屋敷―安原▽2塁打=荒田(奈)
▽決勝
 舞   鶴 0020000 2
 大阪狭山 333100× 10
【舞】田岡、屋敷―金田、安原【大】西野―北野昭▽3塁打=安原、有本(舞)▽2塁打=田岡(舞)北野昭、小林(大)

写真=村尾会長から準優勝のメダルを受ける舞鶴リトルシニア
生息する魚は多様性に富み
由良川フォーラム〜川と森の今を考える〜
 府と京都大学フィールド科学教育研究センター主催の「第2回由良川フォーラム〜川と森の今を考える〜」が8月26日、伊佐津の西駅交流センターで開かれた。近畿大学の細谷和海教授が由良川に生息する淡水魚は、国内でも有数の多様性に富むことを指摘したり、流域や舞鶴の市民らによる山づくりの事例が報告された。  由良川は長さ146キロ。河口から上流まで舞鶴はじめ多くの市町の間を流れる。この流域で活動する団体のネットワークづくりや情報交換などを目的に、昨年から由良川フォーラムを開催。第1回は治水をテーマに企画した。  今回は由良川に生息する淡水魚について細谷さんが講演。旧建設省の調査では由良川には27科77種の魚類がおり、これは琵琶湖に匹敵する種の数という。しかも魚類相を系統別に見ると、東西南北4つのルーツのものが生息し、生物の多様性に富むとした。  メダカは日本では300万年前に南北の集団に分かれたが、由良川では上・下流域に南北集団が棲み分けし、「こうした事例は国内でも珍しく、進化の生き証人である」と話した。また、舞鶴のメダカを綾部に放すと混雑するので放流しないようにと注意を促した。

写真=由良川の魚について近畿大・細谷教授の話を聞く来場者ら
2006年8月25日

「舞鶴共済病院」WHOとユニセフから
赤ちゃんにやさしい病院に認定
 浜の舞鶴共済病院(多々見良三院長)はこのほど、WHO(世界保健機関)とユニセフ(国際児童基金)から、「赤ちゃんにやさしい病院(BFH=Baby Friendly Hospital)」の認定を受けた。出産直後から母親と赤ちゃんとの肌の触れ合いを深め、母乳哺育を促進するカンガルーケアの取り組みが評価された。府下では唯一のBFH認定病院となり、他病院の産婦人科の休止の影響もあり、今年は大幅に分娩件数が増加しそうだ。  ユニセフなどでは母乳育児の支援などのため、「母親が分娩後、30分以内に母乳を飲ませられるように援助すること」など、10カ条を実践している病院をBFHとして認定している。全国では2006年度までに43病院が認定を受けた。共済病院は昨年、BFHに申請して書類審査は通過したが、訪問審査でパスできず、今年再度申請し前回の課題をクリアし、関西圏では6番目の認定を受けた。  共済病院産婦人科では1993年から、母親と赤ちゃんが産後に同じ部屋で過ごす母子同室を開始。生まれたばかりの赤ちゃんを母親が抱き、母乳で育てるカンガルーケアを推進している。また、退院後の育児相談などに応じる母乳外来、出産前後の母親や夫を対象にした母親・両親学級を開設した。出産後の支援にも力を入れており、退院後の母乳育児は90%と高い比率となっている。  多々見院長は「病院全体が協力してできた取り組みであり、住民の皆さんに病院を選んでもらう際の一つの指標になると思う」と話していた。  現在、産婦人科医は福井大学から派遣を受けた常勤医3人、助産師15人、ベッド数25床。。昨年は年間438件の分娩件数があり、この内市内在住者は約半数、残りは高浜や宮津、遠方からの里帰り出産。今年2月から行永の舞鶴医療センターが産婦人科を休止した影響で、1月〜7月の分娩は378件。月平均55件にもなり、年間では600件を超える見通し。

写真=BFHの認定書を手にする多々見院長と助産師ら
浮島丸殉難61周年追悼集会
平和に向けて力を尽くす決意誓う
 浮島丸殉難61周年追悼集会(浮島丸殉難者を追悼する会主催)が8月24日、下佐波賀の殉難の碑公園で行われた。参加者らは日本の戦争の歴史を見つめなおし、平和に向けて力を尽くす決意を誓った。また、浮島丸が帰港するはずだった韓国釜山市でも同22日、地元の子供たちや教会関係者による追悼式が開かれ、その時の追悼文が紹介された。  浮島丸事件では、終戦直後の1945年8月22日、「浮島丸」が強制労働に従事させられていた朝鮮人労働者らを乗せて青森を出港、同24日に寄港した舞鶴港で爆沈し549人が亡くなった。市民らは殉難の碑を建立し、毎夏追悼集会を続けている。  この日は市内外から約300人が参加。これまで追悼事業の中心となってきた同会の前会長、野田幹夫さんが昨年亡くなったのを引き継ぎ、余江勝彦会長が「事件から教訓を学び取り、日朝、日韓、日中国民の友好関係のさらなる発展を念じたい」と追悼の辞を読み上げた。  釜山市でも、今年1月に来鶴し事件を学んだ同市のザラナム教会読書スクールの生徒らが8月22日、追悼式を開いた。中心となった釜山外国語大学校東洋語大学学長の金文吉さんによる追悼文が同会から紹介された。最後に京都朝鮮学校の生徒らが追悼歌を歌い、参加者らは海に向かって献花した。  集会には、韓国から事件で父を亡くした全承烈さんらも参加し、「アボジー」と叫びながら花を海に向け投じた。

写真=追悼の辞を読み上げる余江会長
2006年8月22日

昨年の東アジア国際平和シンポ報告集
「浮島丸殉難者を追悼する会」が発言まとめ
 「浮島丸殉難者を追悼する会」(余江勝彦会長)はこのほど、昨年8月の浮島丸事件60周年に企画した「東アジア国際平和シンポジウム」の発言をまとめた報告書の冊子を作成した。広島市立大学広島平和研究所の浅井基文所長や、韓国・中国の研究者らを招き、追悼事業の意義や東アジアの平和について話し合った。戦争の歴史と向き合う舞鶴市民の粘り強い取り組みへの期待で結ばれている。希望者には有料で配布する。  青森県で強制労働に従事していた朝鮮人とその家族を乗せた船「浮島丸」が1945年8月24日、釜山に向かう途中に舞鶴港に寄港、謎の爆沈を遂げて549人が亡くなった。舞鶴市民で犠牲者を追悼する集会を続け、事件を題材に映画「エイジアン・ブルー」も製作され、韓国と中国でも上映された。  上映に関わった中国北京大学副教授の金勲(キン・クン)さん、韓国延世大学教授の趙載國(チョウ・ジュグク)さん、映画プロデューサーの伊藤正昭さん、同会事務局長(現顧問)の須永安郎さんをパネラーに、浅井さんをコーディネーターに迎えて、国際平和シンポジウムを8月24日開催。約320人が来場、3時間半にわたる話を熱心に聞き入った。  シンポでは須永さんが、「追悼事業を通して日本の加害の歴史を明らかにし伝えることが日本の平和に役立つ」、伊藤さんが韓国上映の反響を元に、「市民交流が平和の条件づくりになる」と発言。趙さんは「追悼する会の運動は新しい歴史を築くことにつながる」、金さんは歴史認識の問題に触れ、「お互いに共有できる歴史認識の土台を作ることが必要」と語った。  報告集の最後で浅井さんは、「シンポジウムを振り返って」と題する文章を寄稿。シンポでは東アジアの平和に向け市民レベルの交流の重要性▽日韓、日中の関係改善には日本の加害責任の問題と正面から向き合うことの重要性などの指摘があったとまとめ、「舞鶴市民の取り組みは間違った方向に向かおうとする日本に対する重要な批判・警告の意味を持っている」と今後の事業への期待を述べた。  冊子はA4判、61ページ。500部作成し、同会会員らに配布した。希望者には1部1000円(郵送料込み)で販売する。
【問い合わせ】電話75・5753、品田さん。

写真=シンポでの発言をまとめた報告書
「ふれ愛つつじ橋」と命名
東舞鶴公園に歩道橋整備、名付け式
 5月のつつじ祭りやスポーツ大会でにぎわう東舞鶴公園に、新しく市道を跨ぎ駐車場と結ぶ歩道橋が整備され、8月17日、行永の同公園で名付け式があった。「ふれ愛つつじ橋」の名付け親となった倉梯第二小5年の永本剛士君らが銘板のプレートを除幕して命名を祝った。  歩道橋は、多くの市民が利用する東舞鶴公園の安全と利便性の向上を図るため、市が整備した。この歩道橋の整備を要望していた南舞鶴自治連合会(倉橋貢会長)と南舞鶴児童愛護連絡協議会(上羽琴嗣理事長)が、市民らに親しまれる歩道橋にと、名前を付けることを決め、地元の倉梯、倉梯第二の両小学校の児童から名前を公募した。  応募のあった204点の名前の中から、審査の結果、永本君の「ふれ愛つつじ橋」を優秀賞として選んだ。また、佳作には、倉梯小5年の豊田真由帆さんの「つつじ自然橋」と倉梯第二小5年の西岡愛美さんの「つつじゆめさき橋」を選んだ。  名付け式には、倉梯、倉梯第二両小の児童代表やPTA、子育て支援協議会などの関係者が出席。上羽理事長が歩道橋の命名に至る経過を説明するとともに、永本君らを表彰。この後、歩道橋に設置された銘板プレートを除幕した。

写真=歩道橋の名前の名付け親・倉梯第二小の永本君や児童代表
2006年8月18日

城北中・中上選手が陸上近畿大会3連覇
市内の小中学生9選手が全国大会へ
 このほど開かれた中学校の近畿大会陸上男子100メートルで、城北中学校3年生の中上拓司選手が優勝、近畿大会3連覇を達成した。8月18日から香川県で始まる全日本中学校陸上大会に出場する。中上選手以外にも、市内の小中学生8人が陸上とウエートリフティング、水泳競技で全国大会に出場する。  中上選手は11秒03の京都府内の中学生タイ記録で近畿大会に優勝した。優勝の期待もかかる全国大会では決勝進出を目指す。同じく全国大会には青葉中3年の前田あゆみ選手が、女子走り幅跳びで出場する。  全国男子中学生ウエートリフティング大会には白糸中3年の足達一貴選手が53キロ級、同3年の横木啓人選手が58キロ級に出る。全国女子中学生ウエートリフティング大会には同3年の石本美月選手と同3年の竹林恵美選手、同3年の村田一菜選手が53キロ級に出場する。両大会とも8月24日に栃木県で開かれる。  8月25日から東京都で開かれる全国JOCジュニアオリンピックカップ夏季水泳大会には、城北中3年の日笠優太選手が13〜14歳以下の100メートルと200メートルの自由形に、中筋小3年の越後智行選手が10歳以下の50メートル自由形、200メートル個人メドレーに出場する。

写真=陸上、ウエートリフティング、水泳の全国大会に出場する選手たち
今年春の藍綬褒章受章を記念して
川崎さんが市社協に福祉器具寄贈
 舞鶴市民生児童委員連盟の元会長、川崎昭二さん(79)=行永東町=が8月17日、市社会福祉協議会に車いす2台と歩行車、折り畳み式スロープ各1台(合計39万円相当)を寄贈した。  川崎さんは、元市職員で、退職後は民生児童委員として福祉活動に力を尽くし、平成16年11月に勇退するまで同連盟の会長も務めた。今年春に社会福祉功績で藍綬褒章を受章したことを記念して、福祉器具の寄贈を申し入れたという。市社協では、運営する居宅介護事業所のケアマネジャーと相談して、貸与用の需要が多く、また福祉器具の見本として車いすなどを購入した。  市社協に届いた車いすなどを前に、川崎さんは「福祉に携わったものとして、少しでもお役に立てればうれしい」と話していた。

写真=寄贈した車いすなどを前にした川崎さん
2006年8月11日

高架下に新しい祠が完成、開眼法要
森踏切地蔵―鉄道の安全を見守り1世紀
 1904年(明治37年)に営業を開始した新舞鶴駅(現在のJR東舞鶴駅)に伴って、翌年に安置され鉄道の安全を見守ってきた森踏切地蔵が、駅周辺の区画整理事業で行き場を失っていたところ、元の場所から約120メートル離れた森の鉄道高架下に新しい祠(地蔵堂)が完成し、再び祀られた。子供たちの交通安全を願って参拝する人が絶えず、長年地域の厚い信仰を集めている。8月8日、西昭和町内会(田中幸男会長、43世帯)の人らが集まり、開眼法要が営まれた。  1901年に旧海軍の舞鶴鎮守府が開設され、軍港への資材の運搬のため鉄道建設が必要となり、04年10月に福知山と新舞鶴間の舞鶴線が完成、11月から開業した。それを受け新舞鶴駅周辺の村人らが、子供たちを鉄道の事故から守ってくれるようにと、翌05年8月に駅近くに地蔵を安置。「踏切地蔵」と呼ばれ、ここ100年の街の変わりようを見つめてきた。  それ以後、1度も事故は起きず御利益がある地蔵として、多くの人が交通安全などを祈願したり、近くの舞鶴共済病院の患者と家族らが願をかける姿もあった。駅周辺の区画整理事業が開始され、市東駅周辺整備事務所西側の木々のそばにあった祠も移動の対象となり、2年前に取り壊された。移転先が決まるまで浜の得月寺で地蔵を預かっていたが、寺まで参拝に来る人もいた。  ウイズビル近くの寺川が流れる高架下の空き地に建てられた祠は、全体の高さ2.7メートル、奥行き2.4メートル、幅1.1メートル。御影石製の台座の上に、総欅の建物を載せ銅板で屋根を葺いた。中に3体の石地蔵が置かれている。森と森町の住民でつくる西昭和町内会で積み立てた資金と市の補償金で建設した。  開眼法要では得月寺の柴田宗典住職が読経し、町内会の役員らが手を合わせた。田中会長は「地蔵をお寺に預けている間も探しておられる人も多かった。子々孫々まで受け継ぎ守っていきたい」と話している。8月20日に新しい祠の元で地蔵盆を開く。

写真=開眼法要が営まれた森踏切地蔵の新しい祠
今年から新たに体操教室スタート
市教委が夏休みジュニアスポーツ教室
 舞鶴市教委主催の「夏休みジュニアスポーツ教室」に、今年から新たに加わった体操教室が、8月10日から上安久の文化公園体育館で始まった。同20日まで計5回の教室で、子供たちは、マット、跳び箱、トランポリンの3種目の基礎練習に励む。  子供たちにスポーツの楽しさを知ってもらおうと、市教委では夏休みの小学生を対象に、水泳、ソフトテニス教室を開いている。体操教室もその1つで、小学4、5、6年生16人が参加、中筋体操クラブの松本昭司代表らがコーチを務めている。  初日のこの日は、準備運動の後、子供たちが倒立やブリッジを練習したほか、マット運動の回転や跳び箱の開脚飛びの練習に取り組んだ。新舞鶴小六年の塩見永君(11)は「バク転が出来るように頑張ります」と、額に汗しながら練習していた。  体操教室は同15、16、19、20日午前10時〜正午、同体育館で開かれる。体操に興味のある小学生は、自由に見学できる。

写真=跳び箱の練習をする児童
2006年8月8日

本社など後援「市長旗全舞鶴少年野球」
はつらつとしたプレーを誓い開幕
 第17回市長旗全舞鶴少年野球選手権大会(舞鶴野球連盟主催、舞鶴市民新聞社など後援)は8月6日、行永の舞鶴球場で開幕した。開会式の後、同球場や東舞鶴公園陸上競技場などで少年と学童の部1、2回戦が行われ、少年の部のベスト4が決まった。  開会式では、学童上級14、同下級13、少年14の計41チーム、総勢約500人の球児たちが、日焼けした顔に闘志をみなぎらせて、堂々の入場行進。内野に全選手が整列して、国旗、市旗、舞鶴野球連盟旗の掲揚を行い、舞鶴野球連盟少年部の山内重紀部長が開会を宣言した。  前年度優勝チームの中筋少年野球ク(学童上級)、志楽少年野球ク(同下級)、鶴友ク(少年)が、市長旗と舞鶴市民新聞社杯を返還して、レプリカを授与された。舞鶴野球連盟の倉橋貢会長が「すばらしい入場行進でした。試合ではチームワークを自分の心に刻んで臨んでほしい」とあいさつ。市の馬場俊一助役は「練習の成果を発揮して、思い出に残る大会にしてほしい」と、市長の励ましのメッセージを代読した。  志楽ドリームズの高橋賢主将が「みんなと力を合わせ、はつらつとプレーすることを誓います」と力強く選手宣誓。同球場で、少年の部1回戦、舞鶴東スポ少B―中筋少年野球クの試合で熱戦の幕を開けた。6日は、同球場と青葉中グラウンドで、少年の部の1、2回戦、東舞鶴公園陸上競技場で、学童上級の1、2回戦が行われた。少年のベスト4が決まり、学童上級の2回戦残り1試合は同12日、舞鶴球場で行われ、ベスト4が決まる。準決勝、決勝は13日、舞鶴球場などで行われる。
 試合の結果は次の通り。  【少年の部】1回戦=中筋少年野球ク17―0舞鶴東スポ少B、高野ドジャース7―0池内少年野球ク、南舞鶴スポ少B8―5与保呂スポ少B、舞鶴東スポ少A5―4舞星野球ク、南舞鶴スポ少A19―0鶴友クC、与保呂スポ少A10―3志楽シャークス▽2回戦=中筋少年野球ク11―1鶴友クA、南舞鶴スポ少B4―2高野ドジャース、舞鶴東スポ少A5―3鶴友クB、南舞鶴スポ少A6―4与保呂スポ少A  【学童上級の部】1回戦=舞鶴東スポ少7―0志楽ドリームズ、高野少年野球ク13―3三笠少年野球ク、南舞鶴スポ少A2―1与保呂スポ少、余内少年野球ク5―4福井少年野球ク、明倫ヘッピリーズ8―0南舞鶴スポ少B、池内少年野球ク9―5中舞鶴少年野球ク▽2回戦=南舞鶴スポ少A5―1高野少年野球ク、余内少年野球ク7―3明倫ヘッピリーズ、志楽少年野球ク4―3池内少年野球ク

写真=選手宣誓する志楽ドリームズの高橋主将
地方の城下町に自治が息づく
竹屋町に伝わる文書、千葉大教授ら調査
 西地区の竹屋町に伝わる文書調査に、千葉大学文学部の菅原憲二教授の研究室が8月7日から取り組んでいる。菅原教授はすでに平野屋文書の調査を終えて目録の冊子を発刊した。隣接する竹屋町でも同じく文書調査をして、城下町の町人たちの自治の詳しい内容をさらに明らかにしたいとしている。舞鶴地方史研究会と地元自治会も協力して、同10日まで整理や目録づくりが続けられる。今後3、4年かけて全ての文書を調べ目録を刊行したいとする。  1580年(天正8)、丹後に入国した細川藤孝・忠興親子によって田辺城の築城が始まるとともに、城下町の骨格が出来上がった。京極時代になり、舟門町とサントモ町が一緒になって竹屋町に名称が変わったとされる。  近世都市の運営を研究する菅原教授が2001年〜04年、学生らとほぼ未調査だった平野屋町の文書約600点の研究に取り組んだ。同研究会と地元住民も協力し昨年冊子を発刊。続いて竹屋町の近世・近代の文書調査を昨年夏から開始した。  江戸時代、田辺城下の経済の中心地だった竹屋町は海に接していた場所にあり、荷物の荷揚げの港と船問屋の商家が多い地域で、高野川岸には土蔵が並んでいた。竹屋集会所に文書が保管され、市史編纂の際一部が調査されたが、本格的な調査はこれが初めて。昨年は、田辺全体の集会所が1745年(延享2)にいまの芦田医院(北田辺)の近くに建てられたことが確認できた。  前年に続き多数の文書や芸屋台の見送り幕を調べ、宗教や金融などに分類、作成年月日・差出人などの項目で目録を作る。学生10人と同研究会の10人が作業し、地元住民もその様子を見学した。菅原教授は「地方の城下町でこれだけ自治が息づいているのも珍しい。平野屋文書以上の点数があり長いスパンで研究し、成果を市民に利用してもらえる形で残したい」と話す。

写真=芸屋台の見送り幕を調べる菅原さんと市民ら
2006年8月4日

10月に元中学教師・塚本さんの遺作展
追悼の碑の原画などの作品探しに協力を
 中学校の美術教師をし、1992年9月9日に56歳で亡くなった塚本浩策さんの遺作展を、同僚や後輩の元教師と教え子たちが10月に計画している。和田中学校の勤務が長く、親代わりになって生徒の面倒を見るなど、思いやりと熱血感のある人柄が、亡くなって14年経ったいまも慕われている。闘病中にも多くの切り絵などを制作し、友人らに贈って大切に残されていた作品を集めて遺作展を開く。同僚たちは塚本さんの作品を探している。  舞鶴出身の塚本さんは京都学芸大学で彫塑を専攻、卒業後中学校の美術教師になった。和田中学校には1966年から89年まで23年間勤務、生徒指導や同和教育などにも全力で取り組み、教え子だけでなくその両親の生活の相談にのるなどした。生徒のために行動する姿を覚えている中舞鶴の人は多く、いまも教え子たちは神様のような存在に思っている。  こうした姿勢は面倒見のよさも加わり、多くの若い教師らに影響を与えた。また、美術教師を集めて展覧会を開くなど創作活動にも力を入れた。昼夜を分かたず奮闘する体だったが、心臓病で何度か手術をした。若浦中に勤務のころ、先に亡くなった妻に続いて他界した。豪快で熱血、そして思いやりと繊細さを持って、56年間を駆け抜けた人生だった。  闘病中にも制作を続け多くの絵を残している。友人の新築祝いに自宅の絵をプレゼントしたり、妻や自分の見舞いのお礼に切り絵を贈ったりした。また、浮島丸事件の犠牲者を追悼する碑の建立に際し、77年に碑の原画を描いた。制作も手掛けたが翌年、手術のため入院し、後輩の美術教師に完成を託した。  友人らがお世話になった恩返しに遺作展をと話し合ったが、最近になって学校を退職して時間ができた後輩らを中心に、教え子や塚本さんの娘2人ら約10人が準備を始めた。塚本さんとつながりのある人を尋ね、贈られた作品を探し歩き、20人以上から茅葺き屋根の民家の風景の切り絵、水彩の似顔絵など約50点を確認。遺作展にはこれら大切にされてきた作品を借り展示する。  家族ぐるみで付き合いをした元教師の余江美穂子さん(61)=白浜台=は「遺作展の話をすると、多くの人から待ってましたと返事が返ってきます。作品を通して塚本さんに再び会い、集まった人たちが元気になれれば」と話す。追悼の碑の原画など作品探しに協力を呼びかけている。遺作展は10月22日〜同26日、浜の総合文化会館小ホールで開く。
【問い合わせ】電話63・2539、余江さん。

写真左=塚本さんが残した切り絵作品
写真右=塚本浩策さん
「浮島丸殉難者を追悼する会」
碑公園にハングル語の説明板を設置
 「浮島丸殉難者を追悼する会」(余江勝彦会長)は、浮島丸事件の起きた現場近くの殉難の碑公園(下佐波賀)に、ハングル語で事件と追悼事業を伝える説明板をこのほど設置した。毎年8月24日の追悼集会以外にも、年間を通して韓国や在日の人たちが訪れることが増えてきたため、日本語の説明板の横に新たに立てた。  青森県で鉄道建設などに働かされていた朝鮮人労働者とその家族が、終戦直後の1945年8月22日、輸送艦「浮島丸」に乗船し大湊港を出航。同24日、韓国釜山港に向かう途中に寄港した舞鶴湾で爆沈し、乗客と乗組員の計549人が亡くなった。  事件を風化させぬようにと、同会前会長の野田幹夫さんらが市民からの募金をもとに78年、同公園に追悼の碑を建立した。その際、背景となった日本の戦争の歴史や事件の概要を記した日本語の説明板を碑のそばに設置した。  事件を描いた映画「エイジアン・ブルー」が国内と韓国で上映されるに伴い、近年では在日韓国・朝鮮人が公園を訪問したり、韓国から来鶴する交流が増えている。通訳を通して説明板を読む人もいるが、ハングル語の説明板で直接事件の理解に役立ててもらうことにした。  説明板は高さ2.2メートル、幅2.3メートル。木の枠にはめ込まれたアクリル板に、日本語版の説明板にある「碑が平和と国際友好のかけ橋に」といった全文をハングル語に訳して記している。余江会長は「通訳なしで来られる方も増えており、これで事件と追悼の取り組みをさらに知ってもらえることにつながる」と話していた。  61周年の追悼集会は8月24日午前11時から同公園で。今回は釜山でも同時刻から追悼集会が開かれ、互いの追悼メッセージを読み上げることにしている。

写真=新たに立てられたハングル語の説明板。奥は日本語の説明板
2006年8月1日

舞鶴労山結成30周年で富士山登山
参加者21人全員が山頂に立つ
 舞鶴勤労者山岳会(加藤明範会長、会員29人)が結成30周年を迎え、記念行事として富士山(標高3776メートル)への登山を初めて企画、7月21日〜23日にかけ取り組んだ。参加した会員ら21人はゆっくりとしたペースで登り、全員が山頂にまでたどり着き、仲間とともに山歩きの楽しさときつさをあらためて味わった。今後も会員増に努めて新たな山行きの計画を話し合っている。  舞鶴労山は1975年8月に結成。山歩きの好きな会社員や主婦、退職者らが入会し、日帰りで登れる範囲で毎月例会登山を開いたり、6月には青葉山の清掃をするクリーンハイクを実施するなどしてきた。また、会員以外でも参加できるバスハイクで九州の由布岳、福島の磐梯山などにも出掛けた。バスハイクを通してカップルが生まれたり、新会員が増えるなどし、最高時で約90人の会員がいた。  山好きの間では富士山は眺める山と評されてもいるが、舞鶴労山として全員で1度も登ったことがなかったため、30周年の記念行事として取り組むことにした。これまで数度登頂した会員や視覚障害者ら21人が参加した。  バスで21日出発、22日早朝に富士山スカイライン新五合目に到着し、午前7時にここから歩き、早い人で午後2時ごろに山頂に着いた。夜から風雨となって天候には恵まれず、1泊山頂小屋で過ごし翌日下山した。事務局の永井暁子さんは「目の不自由な人とも一緒にチャレンジできる機会も持て、無事みんなで終えることができました」という。  初めて富士山に挑んだ岩松美智代さん(53)=倉谷=は「仲間が励ましてくれたおかげで最後まで登れました。山頂に立ちただただ感激です」と話していた。舞鶴労山では会員を募っている。
【問い合わせ】電話63・3872、永井さん。

写真=富士山新五合目に到着した参加者たち
舞鶴少年剣道クラブが準優勝
府警少年剣道大会、楠田署長に結果を報告
 第19回京都府警察少年剣道大会で準優勝した舞鶴少年剣道クラブの山口正行監督(舞鶴剣道連盟理事長)と選手5人が、7月28日、舞鶴署東分庁舎を訪れ、楠田久二署長に結果を報告した。  剣道大会は、7月25日、京都市武道センターで、府下各署から25チームが出場、各チーム5選手による団体戦で優勝が争われた。舞鶴少年剣道クラブは、舞鶴少年剣道教室の小、中学生がメンバーで、平成5年の第6回大会から出場、過去に2回準優勝、3回3位の好成績を挙げている。  今大会の選手は、先鋒・乾竜兵君(倉梯小6年)▽次鋒・山田航君(志楽小6年)▽中堅・山下佳織さん(倉梯第二小6年)▽副将・大槻武史君(白糸中1年)▽大将・長山隼也君(同中2年)。  1回戦で宮津少年剣道教室(宮津署)、2回戦で太秦少年剣道愛好会(右京署)、準々決勝で平屋スポーツ少年団(南丹署)、準決勝で川東剣道スポーツ少年団(亀岡署)を破った。決勝戦は宇治田原剣志会(田辺署)と対戦、惜しくも2勝3敗1分けの僅差で敗れた。  山口監督とともに東分庁舎を訪れた選手たちは、胸の準優勝メダルをかけ、準優勝盾と賞状を楠田署長に披露、同署長は選手たちの健闘をたたえた。

写真=舞鶴少年剣道クラブの選手と楠田署長、山口監督
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