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2010年7月30日













1945.7.30、終戦間近の海軍工廠が丸裸
米軍機が上空から連続撮影、福林さんが米国立公文書館で入手
 1945年7月30日の舞鶴空襲。舞鶴軍港を標的にした爆撃の写真を7月27日付で紹介したが、別の艦載機が舞鶴海軍工廠を上空から連続撮影した写真も、「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」の福林徹代表=亀岡市=が、米国立公文書館で入手した。当時、海軍の艦艇や兵器を製造・修理し、軍事機密だった海軍工廠の様子が手に取るようにわかる。福林さんからの提供を受け、これまで公表されていなかった写真を2回にわたって紹介する。  連続写真は、米軍空母ワスプの艦載機が30日午前10時35分に撮影した。フィルムの下部には表記の一部に間違いはあるものの、舞鶴海軍基地を示す文字が記される。低空を飛行して撮影しているため建物や道路などはっきりと確認できる。  写真1はフィルムに汚れがあるが、海軍機関学校の建物(現在の海上自衛隊舞鶴地方総監部)、右下に浮かぶ船には赤十字のマークが見えることから病院船と思われる。海面に帯が見えるが流出した油によるものか。  写真2は第一船台、第二船台、大きな屋根の建物は焼鉄場、岸壁には小型船が数隻係留されている。右上の船の横で爆撃による水柱が上がる。  写真3はその続き。大きなドックが2つ並ぶ。中央が1904(明治37)年完成の第一船渠(せんきょ)、その下が14(大正3)年完成の第二船渠。第一の横に小さなドックがあり、船が入っている。  舞鶴の近現代史を研究してきた舞鶴高専名誉教授の戸祭武さんは「戦後になってから旧舞鶴海軍の施設を空撮した写真はあるが、戦時中に写真撮影が禁止されていた舞鶴海軍工廠を米軍が詳しく空撮した写真は初めて見た。終戦間近の工廠の様子を知ることができる貴重な記録だ」と話している。

写真=左から写真1。写真2。写真3。
写真右端=地図、撮影された位置
海軍工廠殉職者鎮魂碑前で舞鶴空襲の犠牲者らを追悼
体験者や造船所OBら初の慰霊式で長年の思い果たす
 舞鶴空襲の犠牲者らを追悼する慰霊式が7月29日、余部下の海軍工廠殉職者鎮魂碑の前で開かれた。学徒動員で空襲を体験した人、工廠を引き継いだ造船所のOBや現職ら約30人が参加し、戦争の記憶を伝えていくことを誓った。  日立造船・ユニバーサル造船舞鶴の退職者でつくる「OB・満亀(まんき)会」(蒲田忠夫会長)が、戦後65年の節目を機に、1945年7月29、30日の舞鶴空襲と工廠作業中に亡くなった人たちを追悼しようと初めて開催。蒲田会長が「犠牲者の方々に哀悼の意を表します」と言葉を述べ、参列者が次々と焼香をした。この後、近くの雲門寺でも法要が営まれた。  中舞鶴高等女学校の元生徒の津田澄子さん(80)=桃山町=は、工廠に出勤途中の30日、空襲に遭遇した。「犠牲者の慰霊はどうされているのか分からなかったので、きょうお参りができて長年の思いを果たせました。来年は友人にも声をかけて参列したい」と話していた。29日の空襲で両目を失明した元動員学徒の橋本時代(ときよ)さん(81)=京都市=も、亡くなった旧友一人一人に呼びかけた。

写真=鎮魂碑の前で慰霊の言葉を述べる蒲田会長
2010年7月27日

1945年7月30日の舞鶴空襲、米軍機がとらえていた
戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会の刊行本に写真掲載
 戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会(福林徹代表)が7月24日、『語り継ぐ京都の戦争と平和』(A5判、358ページ、つむぎ出版)を刊行した。明治以後の戦争で重要な拠点となった舞鶴軍港の各施設などを紹介しているが、中でも1945年7月30日の舞鶴海軍工廠を標的とした舞鶴空襲を米軍機が空撮した貴重な写真が掲載されている。モノクロ写真には、爆撃によって水柱が上がる様子が記録されている。新たな資料を発掘した調査の成果を盛り込んだ。  舞鶴空襲は7月29日に米軍が1万ポンド(4.5トン)の超大型爆弾を海軍工廠に投下し多数の犠牲者が出た。続く30日には紀伊半島沖に接近した米海軍第三十八機動部隊の空母レキシントンなどから出撃した戦闘機、爆撃機など約二百機が、舞鶴軍港を中心に宮津湾、小浜湾などを攻撃し、舞鶴湾内に停泊していた海防艦「沖縄」などを沈めた。  掲載された舞鶴空襲の写真は、空母クーペンスの艦載機から撮影したもので、海軍工廠付近の海面に爆弾が投下され、大きな水柱があがる瞬間がとらえられ、東市街地と湾内に浮かぶ船も写る。もう1枚には手前に病院船「氷川丸」らしい船も見られる。写真下部に白い文字で日時を表す「7・30 10(時)30」のほか、「MAIZURU HARBOR」、機密を意味する「CONFIDENTIAL」と記される。  この写真は、国会図書館(東京都)所蔵の米軍資料の中のマイクロフィルムで見ることはできるが、取り出す方法がないため、京都府内の空襲の調査を続ける福林さんが2007年、元の資料が保存されている米国の国立公文書館を訪れ、スキャンニングして入手した。  同書は91年に発行した『京都の「戦争遺跡」をめぐる』が絶版となったのを受け、戦後65年を機に新たに判明した調査結果なども盛り込んで作った。府内の軍事施設、反戦運動、大江山ニッケル鉱山での朝鮮人や中国人らの強制労働、引き揚げなどを記録している。同会は「一般の歴史書では知ることのできない京都の近現代史の一側面を知り、現代の戦争と平和の問題に向き合う上での一助になれば」としている。  1冊2000円(税込み)。初版は2000部。7月24日から京都市内の書店で販売している。注文は近くの書店かつむぎ出版(電話075・252・1788)へ。

写真=爆弾が投下され、舞鶴海軍工廠付近であがる水柱を撮影した写真。下部には日付の「7・30」が見える(米国立公文書館所蔵、福林徹さん提供)
補助で樹木粉砕機導入、竹パウダーで地域づくりを
大浦半島河辺の住民有志で組織「手づくりの里かわなべ」
 大浦半島河辺地区の住民有志で組織する「手づくりの里かわなべ」(永野治郎会長)が、人里にまで侵食する竹を活用した地域振興策に取り組んでいる。京都府の地域力再生プロジェクトの補助を受け購入した樹木粉砕機で竹を微粉末に加工し、土壌改良剤や地域特産品の開発・販売、竹林の拡大防止を計画している。7月31日午後1時から室寺の竹林で作業を公開、西屋集会所で講演会を開く。  かつては河辺地区でも薪炭の生産などで山に入る人もいたが、手入れが行われなくなってからは竹やぶが植林地にまで増え、山の荒廃に住民たちは頭を悩ませていた。大浦全体の活性化に取り組む「ふるさと大浦21」で竹炭づくりをするなど竹林の活用をしてきた実績を踏まえ、同地区でも独自に竹を利用して地域づくりを進めることにした。  府の助成や住民の寄付で樹木粉砕機(約150万円)を購入。キャタピラーを付けた自走式で、1時間に生竹120〜200キロを微粉末にできる。これを空気を遮断した袋に1ヵ月間いれておくと、竹の中にいる乳酸菌が発酵し竹パウダーが完成する。 京都南部では、すでに土壌改良剤や有機質肥料に混ぜるなどして利用されており、永野さんらも畑でキャベツ栽培に使い、大きくて甘いものが収穫できた。今年は水田にも使ってその効果を確かめている。  竹パウダーは1.5キロ、500円で北浜町の産直市場で今月から販売しているが、今後はふるるファームや各地の市場などに広げていく。土壌改良剤のほか、脱臭剤や野菜づくりに活用して付加価値を高めた特産品の開発も目指す。試験農地でサツマイモを栽培、地域の農家に竹パウダーを配布し魅力を知ってもらうことにも力を入れる。  永野さんは「竹パウダーを活用して地域づくりと放置竹林の解消につなげたい」と話している。31日午後1時から室寺バス停近くの竹林で実演し、同2時半から西屋集会所で舞鶴高専名誉教授の川勝邦夫さんによる講演を行う。無料。
【問い合わせ】電話68・0776、永野さん

写真左=生竹を微粉末に加工する樹木粉砕機
写真右=竹の微粉末
2010年7月23日

舞鶴空襲(上) 惨事の記憶 風化の危機
舞鶴海軍工廠を標的に1945年7月29・30日
 戦後65年目の夏を迎えた。海軍鎮守府が置かれた舞鶴も戦争の歴史と深く関わる。引き揚げと浮島丸事件を伝える活動は熱心に取り組まれるようになった。しかし、多数の犠牲者を出しながら風化の危機にさらされつつある記憶がある。1945年7月29、30日の舞鶴空襲だ。舞鶴海軍工廠で働いていた工員や学徒動員の生徒らが亡くなり、後に米軍の原爆投下の訓練だったことも判明した。舞鶴空襲を追った。  昨年の7月29日、工廠近くの共楽公園山頂に立つ鎮魂碑の前に、京都市から来た橋本時代(ときよ)さん(81)がいた。空襲で友人7人を亡くした。「また今年も来たよ」と旧友に向け静かに語りかけた。1977(昭和52)年の第1回慰霊祭から毎年この日に欠かさず訪れる。爆風で吹き飛ぶガラス片で両目を失明し、左耳がほぼ聞こえない大けがを負って戦後生きてきた。  29日は日曜日だったが1万人以上が工廠で働いていた。多くの勤労学徒も動員されており、京都市立洛北実務女学校の生徒だった橋本さんもその1人。午前8時半ごろ、第1造兵部水雷工場で人間魚雷の部品を磨く作業中、工場前の山に1発の爆弾が落ち、一瞬の内に目の前が血の色に染まり気を失った。コールタールで全身真っ黒になり、遺体置き場に並べられたが足が動いたのに気がついた人によって救助された。  この時の惨状については、同女学校の元生徒でつくる洛友会が出版した体験記『失われた青春』に詳しく綴られる。「私たちはともかく防空壕へと走りました。ふと足元を見ると、死体の上に乗っていました。あたりには爆風で顔をえぐられた人、全裸の人たちが横たわっていました」  30日は米海軍の戦闘機延べ230機が、海軍工廠など舞鶴軍港を中心に爆撃や機銃を繰り返した。第3ドックの事務所で働いていた舞鶴第2高等女学校生徒だった福嶋綾子さん(80)=倉梯町=は、出勤したものの空襲のため工場内の防空壕に避難し職場には近づくことができなかった。「白い病院船以外はほとんどの船がマストを海面から出して沈み、真っ黒になったけが人が担架で運ばれていきました」。当時の光景はいまも生々しく蘇る。  29日は工員や生徒ら97人が死亡、100数十人が重軽傷を負ったとされる。しかし、鎮魂の碑には89人の名前が刻まれる。30日は死者83人、負傷者247人と『舞鶴市史』などに記される一方、死者は兵士5人、工員3人など計12人との記録もある。数字の食い違いについて、市史は29日の死者数が30日に混同されたのではと指摘する。  軍事機密とされた工廠内での空襲だったため、詳しい記録が残されておらず、正確な被害の全貌はいまだにわかっていないが、京都府内の空襲で最大の惨事には違いない。

写真=鎮魂碑の銘板に刻まれた舞鶴空襲の犠牲者名(共楽公園)
手旗信号など訓練の成果を披露
舞鶴海洋少年団『海の日』のつどいで
 浜の市商工観光センターで7月19日、「『海の日』のつどい」が開かれ、舞鶴海洋少年団(山本勝眞団長)が、手旗信号やロープワークなど日ごろの訓練の成果を披露した。  つどいは舞鶴「海の日」実行委員会の主催。クイーンまいづるの3人が紹介されるなど、海に関連したイベントなどが催された。海洋少年団もショートパフォーマンスを舞台上で演じた。  小学4年生以下の団員たちが手旗の基本形を見せたほか、団員6人が防災やサバイバルにも役立つ4種類のロープワークを紹介。続いて会場の来賓者から寄せられたメッセージ「家族で楽しい夏休み」を、団員4人が並んで文字を次々と手旗で伝達し、最後の受信者が受け取ってホワイトボードに正しくメッセージを書き込んだ。

写真=つどいでロープワークを披露する団員たち(同団提供)
2010年7月20日

フードバトル・ホルモン日本一目指す
京都府代表で舞鶴から「八島丹山」が参戦
 福井県大野市で7月24、25日に開かれるホルモン日本一を決めるフードバトルのイベントに、舞鶴のホルモン・焼肉店「八島丹山(にやま)」(丹山雄策代表)が京都府代表として参戦する。舞鶴の推奨土産品にもなり、全国に発送している人気のホルモンうどんで勝負に挑む。各地から集まる20店と競って優勝を勝ち取りたいと意気込んでいる。  越前大野城の築城430年を記念し、ホルモンの飲食店の多い土地柄を活かし、越前おおの“とんちゃん”を愛でる会が主催する。東京や神奈川、富山、大阪、山口、福岡などから20店が参加し、屋台で調理したものを食べた来場者らによる投票で競う。京都府からはテレビ取材を受けたり、各地のB級グルメイベントに出るなどで知られる八島丹山に、代表として招待状が届いた。  同店は1955(昭和30)年に開業。ホルモンうどんは、焼肉の最後に鍋にたまったスープでうどんを煮込んで食べる料理。味噌をベースにした創業当時から変わらない秘伝のタレ、国産100%のホルモン、特注のうどん玉、玉ねぎやキャベツの野菜をからめ、濃厚な味わいに仕上がっている。  来店者から人気を博していたため、メニューとして掲げるようになり、2003年には舞鶴観光協会の土産品として推奨を受けた。デパートでの物産展に出品し、ネット通販で全国から注文を受けたりと舞鶴の名物となっている。  当日はスタッフ4人で乗り込み、1000〜2000食分を用意する。丹山さんは「招待をしていただけたということは認知されているんだと実感できました。出るからには舞鶴の味をアピールして優勝し、舞鶴への観光客誘致に一役買えれば」と話している。

写真左=フードバトルのポスターを手にする丹山さん
写真右=舞鶴名物のホルモンうどん
明倫小6年・志賀さん、自己新マークし府予選1位
女子走り高跳びで全国小学生陸上交流大会へ
 明倫小学校6年の志賀安珠さん(11)が、8月27〜29日、東京・国立競技場で開催される日清食品カップ第26回全国小学生陸上競技交流大会の女子走り高跳びに出場する。  志賀さんは、6月26日に西京極陸上競技場で行われた府予選で、1メートル26の自己新記録をマークして1位となり、府代表に決まった。府予選では、これまでの自己ベスト1メートル20を超える高さに挑戦、「バーが低く見えた」と、見事にクリアした。  走り高跳びは、5年生から同校陸上部に入り始めた。走り高跳びの経験がある父親に勧められたのがきっかけ。昨年の市小学生陸上大会では、1メートル16で2位の成績だったが、1年で記録を伸ばした。また、3年生からバレーボール部にも入り、ジャンプ力を生かして、今はエースアタッカーとして活躍している。  府予選では「すごい人たちがたくさんいるので、気持ちを楽にして臨めた」という。また、父親から「弾むように跳ぶこと」とのアドバイスを受けた。  「1位となりびっくりしました。全国大会では、1メートル30を目標に頑張ります」と話している。

写真=優勝メダルを胸に賞状を手にする志賀さん
2010年7月16日

ターンテーブリストのHI―Cさん(田中町)
世界大会チーム部門、レコード自在に操り3連覇
 レコードを手で自在に操り、新しい音楽をつくりだすターンテーブリスト、HI―C(ハイシー)さん(27)=田中町。ターンテーブルの日本大会での優勝を手はじめに、ユニットを組んで出場した世界大会のチーム部門で2009年までの3年連続、チャンピオンの座に輝く。10代のころ不良少年だったが、好きな音楽に出会って猛練習し、いまは舞鶴を拠点に全国や世界各地をツアー演奏するアーティストとして活躍している。  回転台を2基備えたターンテーブルは元々、レコードをかけるだけの装置だったが、2枚のレコードを手でこすって前後させ、同じ部分を反復再生させるスクラッチなどの奏法によって楽器として扱い、レコードに収められている音楽とは異なる新しい曲を生みだす。ヒップホップやロック、レゲエなど様々な音楽を取り込みオリジナルなものへと再構築する。  10年前、DJシュミレーションゲームを経験したのを機に、ターンテーブル大会の日本チャンピオンのビデオに衝撃を受け、演奏者を目指すことにした。演奏のビデオを次から次へと買いまくって見たほか、イベントなどに出かけてカメラで撮影、テクニックを教わり研究した。1日8時間ぶっつづけで猛練習し、03年に日本チャンピオンに輝いた。   翌年大阪へ出てDJの仕事をする一方、三味線や太鼓など日本の音を取り入れた独自の音楽を作り、05年の世界大会でアジアから初の世界チャンピオンを獲得。続いてDJ YASH氏とユニットKireek(キリーク)を組み、07年最も権威あるDMC主催の世界大会に挑み、チーム部門で初優勝し昨年まで3連覇を果たしている。  白糸中学時代はやんちゃな生徒でならした。エネルギーを持て余し、バイクに乗って暴走行為も繰り返した。そんな中、熱中できるターンテーブルに救われ転機が訪れた。いまではロシアや中国、欧州などのイベントにも招かれ、世界から注目を集めている。昨年舞鶴に戻ってからは日本各地へ出向いている。  HI―Cさんは「演奏を生で見て度肝を抜かれた。中学生のころ本気にぶつかってくれた先生たちにいまの姿を見てほしい。世界大会の4連覇を目指したい」と話している。地元でのイベントに出演したり、子供たちを対象にした教室も開きたいとする。7月17日の八島商店街の夜の市でDJショーを行う。

写真=ターンテーブルを演奏するHI―Cさん
絵による心理分析などする稲岡さん(余部下)
自宅を開放、コミュニケーションギャラリー
 絵画教室などを主宰し絵による心理分析などをする稲岡博さん(61)が、余部下の自宅の一室をコミュニケーション・ギャラリーとして開放している。壁には自作の絵を飾り、気軽におしゃべりをしていってほしいとする。  稲岡さんは絵のまち尾道四季展で奨励賞を受賞したり、絵画指導などをしてきた。その後、絵による心理分析の活動に取り組み、悩みを持つ人たちにアドバイスをしている。  ギャラリーの一室には希望や共生などをテーマにした3部作、安らぎをテーマにした絵などを展示している。入場無料。時間は午前10時〜午後5時。
【問い合わせ】電話62・7517、稲岡さん

写真=自宅の一室の壁に展示した絵と稲岡さん
2010年7月13日

舞鶴高専専攻2年・吉富さん、障害者ボート男子シングルスカルで
パラリンピック目指しアジア大会日本代表選考会へ
 舞鶴高専電気・制御システム工学専攻2年の吉富大祐さん(22)が、障害者のボート競技のアジア大会に向け、7月17日に埼玉県戸田市で開かれる日本代表選手を決める選考会に、男子シングルスカル(1人乗り)で出場する。4年前にバイク事故で脊髄を損傷する重症を負ったが、約半年間のリハビリを経て車いすで復学し競技も再開した。入院中に知り合い、ともにリハビリに励んだ友人と、2012年のロンドンパラリンピックを目指している。  電気情報工学科4年生の9月、バイクを運転中に対向車を避けようとして転倒した。背骨がくだけ救急ヘリで東大阪市内の病院へ運ばれ手術を行い、枚方市の病院へ転院してリハビリを開始した。ベッドから上半身を起こすことさえも苦しい日々が続く中、交通事故で入院する大阪市内の1つ年上の男子大学生と出会った。  自分よりも重いけがだったが、一緒にリハビリを行うように。大学生は高校時代、フェンシングで全国大会の出場歴をもつ。高専入学後ボート部で2年間競技をしたことを話すと、「フェンシングとボートでパラリンピックに出よう」と冗談めかして言われた。車いす生活になることは覚悟していたが、励ましあう友人ができたことで「なんとかなるやろ」と前向きになれた。  医者も驚くほどの回復ぶりで翌年4月に復学。当初は学校に戻れないと思ったが、高専側が施設や敷地内の寮をバリアフリー化するなどで支援、同級生らもサポートした。専攻科へ進学し車いすハンドボールも始めた。友人も車いすで競技を再開し、一緒に旅行に出かけるなど交友を続けている。  〇八年の北京パラリンピックで、障害者のボート競技「アダプティブローイング」が正式採用されたことを知った。転覆防止のリガーを付け、座席も固定式など特殊なボートを使う。競技艇を備える練習環境が一部の地域にしかなく、競技はあまり普及していない。  日本アダプティブローイング協会に練習法を問い合わせたところ、昨年12月に埼玉県の漕艇場で乗る機会ができ、競技を勧められた。今春には韓国大邱(てぐ)市での大会に招待選手で出場。3位に入賞したが練習不足を実感し、5月から浜の漕艇センターでローイングエルゴメーターと呼ばれる室内マシンを使って、2〜3000メートルの距離を漕いで持久力をつける早朝練習を、東舞鶴高校ボート部顧問の教諭の協力で取り組んでいる。  12月に中国で開かれるアジア大会の選考会は5人が出場する予定で、マシンを使った室内レース、ボートに乗っての2レース(距離1000メートル)のタイムトライアルで代表1人が選ばれる。選手の中で1番キャリアは浅いが、ここ1ヵ月間の練習でタイムを1分10秒縮め、6分10秒台にのせチャンスはある。  吉冨さんは「事故直後は手も動き意識もはっきりしていたので、生きてみようと気持ちを切り替えることができました。ボートは風を受けて気持ちがよく楽しい。まだまだ実力不足ですが友人とともにパラリンピックに近づけるよう、互いに練習に励みたい」と話している。

写真=室内マシンを使い練習する吉冨さん
ディナモ舞鶴スポーツク・バトンスクールの橋本さん(中筋小)
関西バトントワリングコンテスト入門ソロトワールで金賞
 引土のディナモ舞鶴スポーツクラブのバトンスクールに所属する橋本愛奈さん(中筋小学校3年)が、このほど大阪市中央体育館で開かれた第28回関西バトントワリングコンテストの入門ソロトワール種目で、金賞を受賞した。  バトンスクールは昨年10月から開講し、加納靖子さんと白杉和子さんの指導で小学生と幼稚園児の7人が学んでいる。今回出場した入門ソロトワール種目は、1本のバトンをいかに正確に扱うことができるかの技術を競うもの。約400人が出場した。  音楽に合わせて規定演技を行い、バトンテクニックと表現力など3項目で審査された。橋本さんは「手と足がピンとなるように気をつけて演技をしました。金賞を受賞できてうれしいです」と喜んでいた。

写真=バトンを手にポーズを決める橋本さん
2010年7月9日

ふるさとの戦争と平和を綴り自費出版
引き揚げ語り部・舞鶴出身の広橋さん(京都市)
 高校まで舞鶴で過ごし、引き揚げの語り部を務めている広橋澄子さん(72)=京都市西京区=が、引き揚げや浮島丸事件、旧舞鶴軍港などについて綴った文章を1冊にまとめ、『舞鶴‐発 ふるさとのまちは今』(102ページ)の題名で自費出版した。帰省をするごとに関係者の元を訪ねて聞き取りするなど、戦争と深くかかわってきたふるさとの歴史を見つめることから、まちのあり方を考えている。  東舞鶴高校を卒業して地元を離れ、京都市内で中学校の教諭を務めた。定年後、立命館大学国際平和ミュージアムでボランティアガイドの活動をする中、舞鶴の旧海軍や海上自衛隊のことなどを聞かれたが、何も知らず答えることができなかった。小学生だったころ、引き揚げ者の出迎えをした記憶はあるが、いつしか舞鶴の話題と少し距離をおく自分がいた。  引揚記念館での語り部養成講座を受講し、体験者から話を聞く一方、時間をつくってまちを歩き、旧軍施設や戦後の歩みを関係者などから聞き自分で調べるなどした。語り部としての活動や知らなかった浮島丸事件の追悼集会にも参加、戦跡を案内するガイドも務めるなど市民と交流する機会も増えた。  敗戦直後の舞鶴のまちの様子、海軍工廠、舞鶴空襲、第3火薬廠、東山防空指揮所、戦時中に久美浜へ疎開した体験。これらをボランティアガイドの会報に六年あまりにわたって書き、ミュージアム名誉館長の安齋育郎氏から本にまとめるよう勧められた。  長い戦争の歴史に翻弄された町の姿を見直しながら、美しいふるさとの風景を残し、軍港の歴史を繰り返さないでほしいとの思いを綴った。広橋さんは「まちに向き合うことで舞鶴のことが大好きになり、ミュージアムでも舞鶴の歴史を紹介しています。若い人や京都の人たちに舞鶴の歩みを知ってもらえれば」と話す。  多くの関係者の協力で貴重な記録写真も掲載し、八百部作製した。1冊1000円。市内のなみえ書店、アスカ、舞鶴堂書店に置く予定。
【問い合わせ】電話075・252・1788、つむぎ出版

写真=完成した本を手にする広橋さん
倉梯二小6年生、プロのレッスンで合唱特訓
10月、同校で藤原歌劇団オペラ「カルメン」に出演
 行永の倉梯第二小学校の6年生64人が、藤原歌劇団(川崎市)のオペラ公演「カルメン」に出演するため、7月6日、来校した指揮者たちから合唱と演技の指導を受けた。セリビアの子供や闘牛士役に扮する児童たちが、元気よく歌ったり舞台の立ち位置を確認した。  プロの歌や演技を子供たちに体験してもらおうと、文化庁の本物の舞台芸術体験事業として開かれる。本来、「カルメン」は4幕ものだが、同歌劇団が学校公演向きに2部構成にして各地で上演している。  児童たちはイタリアの子供、闘牛士、警官役に扮し、全員で「子供達の合唱」を歌うなどのシーンに出演する。5月から合唱の練習を始め、この日は指揮者の須藤桂司さんらの前で練習の成果を披露し、行進しながら歌うシーンなどでアドバイスを受けた。また、演出助手の手塚優子さんからは舞台での並び方などを教わった。  警官役で出演する廣瀬智貴君(11)は「きょうの練習はうまくいきました。当日は大きな声で台詞が言えるようがんばりたいです」と話す。公演は10月20日、同校体育館で上演される。

写真=歌劇団指揮者の指導で歌う6年生たち
2010年7月6日

本社など後援「第21回市長旗全舞鶴少年野球」
組み合わせ抽選会で対戦相手も決まり8月1日開幕
 第21回市長旗全舞鶴少年野球選手権大会(舞鶴野球連盟主催、舞鶴市民新聞社など後援)の組み合わせ抽選会が7月3日、浜の市商工観光センターで行われた。学童上級、同下級、少年の部の1回戦から決勝までの対戦カードが決まり、日焼けした球児たちは、大会に向け闘志をみなぎらせていた。大会は8月1日、行永の舞鶴球場で開幕する。  組み合わせ抽選会には、学童上級15、同下級14、少年9の計38チームの主将や選手、監督ら約80人が出席。同連盟少年部から大会日程などの説明があり、抽選に移った。  組み合わせ抽選は、学童下級、同上級、少年の順に行われた。上級と少年の部に2チーム出場するチームは、決勝まで対戦しないようにブロック分けを行い、大会出場受け付け順に各チームの主将がくじを引いた。また、学童上級の1番くじを引いた余内少年野球クの井ノ口洸之介主将が、選手宣誓をすることが決まった。  大会は8月1日午前8時から舞鶴球場で開会式を行い、全チームの選手が入場行進する。式の後、同球場で少年の1、2回戦、隣接する東舞鶴公園陸上競技場で学童上級の1、2回戦があり、8月7日に学童上級、同8日に少年の準決勝、決勝が行われる。学童下級は同21、22日に行う。
 出場チームは次の通り(組み合わせ順)。
 【学童上級の部】余内少年野球ク▽中筋少年野球ク▽池内少年野球ク▽与保呂スポ少▽高野少年野球ク▽福井少年野球ク▽南舞鶴スポ少▽南舞鶴スポ少G▽舞鶴東スポ少▽三笠少年野球ク▽明倫ヘッピリーズ▽共楽少年野球ク▽志楽少年野球ク▽茜が丘ベースボールク▽朝来少年野球ク
 【学童下級の部】池内少年野球ク▽共楽少年野球ク▽福井少年野球ク▽舞鶴東スポ少▽三笠少年野球ク▽志楽少年野球ク▽中筋少年野球ク▽朝来少年野球ク▽茜が丘ベースボールク▽与保呂スポ少▽南舞鶴スポ少▽高野少年野球ク▽余内少年野球ク▽明倫ヘッピリーズ
 【少年の部】志楽シャークス▽舞星野球クA▽与保呂スポ少▽中筋少年野球ク▽舞鶴東スポ少▽鶴友ク▽舞星野球クB▽高野ドジャース▽南舞鶴スポ少

写真=抽選のくじを引く球児
障害をもつ市民と子ら、趣味を楽しみ創作に励む
7月19日まで森のとけいで陶芸と絵画の作品展
 様々な障害をもつ市民と子供たちによる陶芸と絵画の作品展が、上安のゆっくり茶房「森のとけい」で始まった。市身体障害者福祉センターで活動する市民らが、互いに助け合いながら制作した花器や油絵などを並べ、趣味を楽しんでいる姿を紹介している。7月19日まで。  同センター事業で陶芸と絵画を学んでいた市民たちが、もっと作品づくりに打ち込もうとサークルを結成。陶芸に15人、絵画に8人のメンバーが、陶芸家らの指導やボランティアの協力を受け、目や手足が不自由など障害は異なるが、工夫しながら作品を仕上げている。  毎年、同センターで作品展を開いているが、センターを利用しない市民たちにも見てもらおうと、今回初めて地域で作品展を開いた。2月から準備を進めて完成させた陶芸品30点、風景などの絵画13点を出品。また、医療的ケアを受ける小学3年生や養護学校の生徒たちも陶芸や絵などを並べた。  左腕だけで陶芸をする大石進さん(80)=北田辺=は「センターで活動するのを楽しみに通っています。障害者もがんばっていることを1人でも多くの人に知ってほしい」と話す。火曜休み。
【問い合わせ】電話76・1153、同店。

写真=作品を出品した市民と子供たち
2010年7月2日

日本の美しい風土、7月11日までサンムーンで個展
米国人画家・ウィリアムズさん(大津市)が曲面絵画など
 日本の美しい風土に魅了されて各地を写生旅行する米国人画家のブライアン・ウィリアムズさん(60)=大津市=の個展が、浜のギャラリー・サンムーンで開かれている。月夜や夕焼けにつつまれた青葉山と海辺のパノラマの風景画、遠近感を表現するために湾曲した平面に描いたオリジナルの曲面絵画など約40点を展示した。景色の光と空気までもとらえる絵は、自然景観を守ることの大切さも伝えている。  1972年に来日後に定住し、日本各地の茅葺民家や海など自然の風景などを水彩画などで表現し、公立美術館にも作品が収蔵されている。画家として自然景観に触れる体験から、「景観は環境の健康をはかるバロメーター」と、メディアを通して乱開発による自然破壊に警鐘を鳴らす。  舞鶴での開催に合わせ、若狭から丹後までの風景画を制作。高浜の和田から眺めた海と青葉山は月明かりの下で描き、その明かりが波と雲を照らし神秘的な風景となっている。また、同じ場所から夕焼けに染まる景色も描いた。小橋の海の作品は高所作業車に乗り、樹木で遮られた景色を高さ約11メートルの目線から眺めて完成させた。  3年前から始めた曲面絵画は、曲線の流れで動く人の目線を画面で表現しようと考えついた。板を3、4枚張り合わせて凹凸の曲面の型に仕上げ、そこに油絵の具で描く。自分に近い景色は膨らんだ部分に、遠いところはくぼんな部分に配置することで遠近感や臨場感を出すことができる。桜島や隠岐の島の荒海などの雄大で迫力ある風景が並んだ。  ウィリアムズさんは「日本の風景は四季の移り変わりがきめ細やかで同じ場所に行っても常に新しく、棚田は美しい曲線のあぜを持つなど魅力は尽きません。しかしそれも公共事業で破壊され、いま原風景のかけらしか残っていない。風景画家として保全を訴えるのも役目だと思っています」と話す。  初日は立道明美さんによる箏の演奏も行われた。展示は7月11日まで。入場無料。火曜休み。
問い合わせ】電話63・4858、サンムーン

写真=遠近感や臨場感を出す曲面絵画とウィリアムズさん
関西オープンアームレスリングで「鉄腕舞鶴」古川さん
強豪破って準優勝、9月の全国大会への出場権得る
 全国の強豪が出場した第16回関西オープンアームレスリング選手権大会で、「鉄腕舞鶴」に所属する古川修吾さん(33)=浜=が、男子ライトハンド70キロ級で準優勝した。9月19日に東京都内で開かれる全国大会への出場権を得た。  アームレスリングは腕相撲をルールに従って競技化したスポーツ。「鉄腕舞鶴」には21人が所属し、昨年は4人が全国大会に出たり、高校生の選手が高校チャンピオンに輝くなど、京都府内で最もレベルの高いチームになっている。  建築業の古川さんは京都府大会で3年連続優勝を果たしているが、関西大会は昨年7位にとどまった。関西大会には各都道府県のチャンピオンが集まり、関西をとれば全国で1位になれるといわれるほど猛者が揃う。古川さんはチームのメンバーらと京阪神の強豪チームの元に出稽古に赴いたり、ウエートトレーニングでパワーアップを図るなどしてきた。  6月27日に開かれた関西大会には28人が出場。4回戦で昨年の関西チャンピオンを撃破し波に乗り、決勝戦でもパワーでは押したが相手のテクニックで惜しくも敗れた。古川さんは「目標としていた関西でメダルをとることができ、次の全国でも上位入賞を目指したい」と話す。  鉄腕舞鶴は八島商店街の土曜夜の市で鉄腕杯を開いている。優勝者には賞金や商品が出る。一般男子・女子、小学生男子・女子、中学生、高校生の部で、7月3、10、17日は飛び入れでだれでも参加できる。午後7時からエントリー開始。24日は決勝戦。

写真=準優勝のメダルを手にする古川さん
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