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2011年9月30日












浮島丸事件 下北からの報告 D続・語り伝える下北の市民たち

反発の声、熱い想いで道開く 「歴史に時効なし」
中・高校生 授業・文化祭で学ぶ 市民 辛い体験いま語り始める
 様々な取り組みが次々と行われ、下北での浮島丸の運動は一気に広がるかに見えたが、そうはならなかった。この点の事情について、舞鶴の「浮島丸殉難者を追悼する会」の前事務局長、須永安郎さん(86)は以前、下北の会前代表の斎藤作治さん(81)に端的に指摘したことがある。「舞鶴は朝鮮人を助けた方だが、下北はいじめた側だから」と言うのだ。  朝鮮人労働者たちに過酷な労働をさせた民間の建設会社の関係者たちは、戦後もこの地で暮らしているだけでなく、強制労働をする朝鮮人に対して生まれた民族差別といった風潮が消えずに残っていた。そんな感情を敏感に感じ取る在日二、三世の韓国・朝鮮人たちは、自分の生い立ちを明らかにせず暮らしている。  戦前の旧海軍大湊警備府と戦後の海上自衛隊大湊地方隊、そして周辺市町村に配置された陸・海・空の自衛隊と米軍基地。最近出版された『ルポ下北核半島』(岩波書店)の中で、青森の地元紙「東奥日報」の論説委員、斉藤光政氏は「日米4軍が揃うのは青森と沖縄だけで、青森県の軍用基地面積は沖縄に次いで2番目」と指摘する。「北の要塞」の状況はいまも変わらず、その存在は地域社会に大きな影響を与えている。  そんな中で運動を進める下北の会は、有形無形の声を聞くようになる。「朝鮮人だけが苦労し、ひもじい思いをしたのではない。日本人も同じだ」「お前たちは朝鮮の味方をするのか」。こうした抗議を匿名の電話やはがきで受けた。はっきりとした反発でなくとも、市民の中にはあまりにもつらい体験であるため、進んで語りたくないという心情も横たわるようだ。  「先生は好きだけれど、浮島丸をやっている先生は嫌いだ」と、斎藤さんは教え子から言われた経験を持ち、厳しい環境を改めて認識させられる。しかし、環境を言い訳にするよりも、事件に距離を置く住民にどう理解を求め、運動の裾野を広げていくかを考え続けた。  大切にしたのは、使役した側の関係者の過去を暴くことや、無理に証言を引き出すのではなく、強制労働の実態を正確につかみ、日本とアジアの関係、明治以来の歴史、人権問題の視点で学びあうことだった。2000年以降、活動に強弱はあっても追悼集会を中心にしつつ、調査・学習・講演を地道に続ける。  下北の会顧問の鳴海健太郎さん(80)は地域の歴史の研究家でも知られる。「運動には波があるが、資料を収集し記録さえ作っておけば、語り伝えるための基礎として活用できる」と、いまも事件の資料や証言の発掘に励む。「歴史に時効はありません。日本の戦争や強制連行、浮島丸事件とは何だったのか。2度と戦争をしないためにも事件を忘れてはなりません」。市民に語り続けている。  舞鶴と下北の運動で大きく違う点がある。子供たちへ伝える活動だ。舞鶴では学校の様々な場で浮島丸事件を子供たちに話す機会がほとんどない。それに対し、下北は20年以上前から県立大畑高校などの文化祭で生徒たちが展示発表し、大間鉄道のフィールドワークや追悼集会にも生徒たちが参加していた。  市内外の中・高校が平和・地域学習で事件を取り上げ、講師に招かれた斎藤さんが授業や講演で「事件を伝えることがこの地域に生きるものの使命」といつも熱っぽく語りかける。最近では青森市内で曹洞宗住職たちの学習会、弘前市の憲法集会で講演し、県内全域に事件への関心が浸透している手ごたえを感じる。そこから住職たちが下北の会に新たな力として加わった。  下北の会の新しい代表を、元高校教諭の村上準一さん(64)=むつ市=が今年から務める。20年前、証言集作成時の編集委員の1人として、間近で斎藤さんや鳴海さんの姿を見てきた。「差別や偏見に負けずに先輩たちはがんばってきた。バトンを託された私たちも後に続けるよう力をつけたい」  そして静かにこう話す。最近になって新たな強制労働の証言が寄せられる現実に、「戦後66年経ったいまだからこそ、語れるようになった。少しずつ市民の意識も変わってきているのを感じます」。  厳しい環境下の運動だがそこに悲壮感はまったくない。少人数だが、個性的で、それぞれ得意の分野で自分の力を発揮している下北の人たちの、浮島丸事件に込める熱い想い。舞鶴の一行14人の心に大きく、力強く響くものがあった。その残響はいまも消えていない。

写真左=2010年の浮島丸出港追悼集会で献花する参加者たち(浮島丸下北の会提供)
写真中=今後の活動を託された浮島丸下北の会の新代表の村上さん
写真右=青森に到着した舞鶴の一行を大間のフェリー乗り場で出迎える下北の会のメンバーたち(8月27日)



MOA美術館舞鶴児童作品展
奨励賞に 絵画は山内さん(新舞小)
書写は坂田さん(倉二小)
10月29日 市商工観光センターで
 第17回MOA美術館舞鶴児童作品展(財団法人エム・オー・エー美術・文化財団主催、舞鶴市民新聞社など後援)の入賞作が決まり、最優秀賞のMOA美術館奨励賞に絵画の部で新舞鶴小4年の山内麻莉乃さん、書写の部で倉梯第二小2年の坂田倫花さんの作品が選ばれた。作品展は、10月29日午前10時から午後3時、浜の市商工観光センターで開かれる。  子どもたちの創作活動を奨励し、創造性豊かな次代を担う人材を育成することを目的にした恒例の作品展。市内の児童から絵画、書写の作品を募り、絵画104点、書写147点の応募があった。  作品は審査され、MOA美術館奨励賞や舞鶴市長賞、舞鶴市民新聞社賞など入賞賞作品が決まった。作品展では、応募全作品が展示される。
 MOA美術館奨励賞を除く、入賞者は次の皆さん。
 【絵画の部】舞鶴市長賞=柏原彪吾(吉原小)▽舞鶴市教育委員長賞=山本千紗姫(倉梯小)▽舞鶴市民新聞社賞=岩間千果(吉原小)▽金賞=西垣萌生(倉梯小)▽銀賞=川北千奈都(倉梯第二小)▽銅賞=山アみほ(高野小)
 【書写の部】舞鶴市長賞=中川真紀子(由良川小)▽舞鶴市教育委員長賞=山口紗瑛(倉梯小)▽舞鶴市民新聞社賞=井上かのん(大浦小)▽金賞=岸勇太朗(大浦小)▽銀賞=藤本真央(中筋小)▽銅賞=長田夏穂(新舞鶴小)
写真左=MOA美術館奨励賞 山内さんの作品
写真右=MOA美術館奨励賞 坂田さんの作品


2011年9月27日









「GO FOR FUTURE」  舞い上がれ夢!連凧でつながり大空へ
未来美術家の遠藤さん  中学校支援学級でワークショップ
10月5〜7日 連合作品展
総合文化会館で展示& 5、7日は前島みなと公園で凧揚げ
 「未来へ」とペインティングした黄色い車で生活しながら全国各地を回って、夢を書いた凧づくりをしているアーティストの遠藤一郎さん(31)がこのほど来鶴し、市内の中学校の支援学級でワークショップに取り組み、中学生たちと連凧を作った。10月5日〜7日に総合文化会館で開かれる連合作品展で展示されるとともに、空に揚げることにしている。  遠藤さんは「未来へ号」で車上生活をしながら各地を走って、「GO FOR FUTURE」のメッセージを発信し、アートイベントなどに出演してパフォーマンスを披露したり、写真や映像などを使って活動の記録や作品などを展示。凧づくりプロジェクトは2009年から続ける。  舞鶴市ふれあいレクレーション・連合作品展実行委員会が、10月の作品展に合わせ試行的な取り組みとして、共同作品づくりをしようと、まいづるRBの紹介で遠藤さんを講師に招いた。市内の六中学校の支援学級の生徒たちが制作する。  9月22日は白糸中を訪れ、生徒7人に連凧づくりを指導。ビニールに骨組みをテープでくっつけた後、遠藤さんは「自分の夢は人と助け合ってつながらないと空に揚がらない」と夢を書いてもらった。生徒たちはそれぞれ「医者になりたい」「パティシエになってみんなが喜ぶケーキを作りたい」などを書いた。それらの凧をつなげて、新舞鶴小学校グラウンドで揚げると、強い風に乗って見事に舞い上がった。
 各学校でつくった凧をつなげて100個以上の連凧にして、連合作品展の10月5日と7日、浜の前島みなと公園で揚げる予定。

写真左=生徒に夢を書いてもらった凧づくりを指導する遠藤さん(白糸中で)
写真中=黄色の車体に全国の人から夢を書き込んでもらった「未来へ号」
写真右=空にあがった連凧



設立40周年でヤマボウシ記念植樹
市スポーツ少年団
文化公園と東舞鶴公園に
 舞鶴市スポーツ少年団(岡山恭治本部長)は9月25日、上安久の文化公園と行永の東舞鶴公園で、団設立40周年記念事業として記念植樹を行った。また、団員たちが試合や練習で使用する両公園の清掃活動を実施した。  文化公園の記念植樹には、西地区の八雲、舞鶴中筋FC、舞鶴少年サッカークラブの団員や指導員らが参加。同公園多目的広場近くに、高さ2メートルのヤマボウシを植樹した。  植樹式では、岡山本部長が「植樹する木が葉を茂らせ花を咲かせるように、みんなもスクスク成長してほしい」とあいさつ。岡山本部長と八雲スポーツ少年団の野球部主将、小谷拓夢君(11)が、スコップで土を入れ、全員で記念撮影した。
 東舞鶴公園でも、東地区の団員たちが参加して、同公園内にヤマボウシを植樹した。
写真=記念植樹する岡山本部長と八雲スポ少の小谷君(文化公園で)


2011年9月24日

浮島丸事件 下北からの報告
C語り伝える下北の市民たち

地道な調査研究 運動のうねりへ
証言集、演劇、集会で発信
韓国の生存者とも交流、幅広い支持へ壁も
 過酷な労働をさせられていた朝鮮人労働者、そして彼らと家族を乗せた「浮島丸」の出港を目撃した下北の人たちだったが、船が舞鶴湾で爆沈し多くの犠牲者を出したことは当時国内で報道されなかったこともあり、戦後20年以上、ほとんどの人が浮島丸事件を知らずにいた。  下北での火付け役となったのは元青森短大助教授の秋元良治さん(故人)と、元小・中・高校で教員を務めた鳴海健太郎さん(80)たちだった。舞鶴で犠牲者を追悼する殉難の碑づくりをする話を、秋元さんが関西での教職員組合の集まりで聞き初めて事件を知る。1968年教育研究集会で事件の話をすると、教師仲間の鳴海さんらと「朝鮮問題懇話会」をつくって研究を始め、朝鮮人たちの飯場の場所を調査し下北にいた人数を明らかにした。  鳴海さんは戦時中の少年時代、朝鮮人の子供たちと遊んだり、飯場から作業現場に向かう労働者たちとよくすれ違っていた。戦後、大湊の常楽寺で聞いた「朝鮮人を乗せた船が沈んだらしい」という話に驚き、少しずつ浮島丸事件を調べていた。  その後、懇話会の結成で調査が加速し、国会図書館などで資料の発掘、目撃者の聞き取り、船の出港に関わった大湊警備府関係者からの貴重な証言を聞きだした。そうした成果を新聞や雑誌に個人やグループで発表し、事件への関心を集める役割を果たしたのだ。  調査・研究活動を土台に、大きな運動が生まれた転機は1991年。「下北の教育を考える大集会」で、鳴海さんが行った事件の報告を聞いた中に、37年間の高校教師の生活を終えたばかりの斎藤作治さん(81)がいた。斎藤さん自身も小学生時代、鉄道工事の労働者が大きな棒で容赦なく殴られていた光景を目にしている。「下北の人はこの事件を忘れてはならないし、後世の人にも伝えなければならない」と報告に強い衝撃を受け、持ち前の行動力を発揮することになる。  その年の12月、「下北の地域文化研究所」を設立し、最初の仕事として約20人の市民が編集委員となり、事件の背景や下北での朝鮮人の強制労働を聞き取り、証言集『アイゴーの海』を翌年出版。初版の1000部は予想を越える売れ行きで、急いで500部を再版するほどだった。同時期、地元のアマチュア劇団「未来半島」が事件を題材に、「七軒番屋の人々」など2つの舞台を上演した。  平安京の建都1200百年を記念し、京都の市民グループが事件を取り上げた映画「エイジアン・ブルー」の製作を決定すると、93年「浮島丸下北の会」を結成し、翌年下北でのロケに協力するとともに、第1回の浮島丸出港追悼集会を菊池桟橋跡地で開いた。そして完成した映画の上映運動へ。  韓国とのつながりも生まれた。『アイゴーの海』の韓国版が、事件で救出された韓国在住の人たちの証言も追加され出版された。むつ市の元中学校教諭、佐藤ミドリさんは94年韓国を訪れ、戦時中、大湊国民学校の生徒として下北で過ごした事件の生存者、チャン・ヨンドさんに会いその体験を聞き取り、96年にも下北の会メンバーらと再度訪韓し交流を深めた。  新聞やテレビも事件を取り上げるようになり、下北の活動は全国に、韓国にと発信する力を見せる一方、課題もあった。地域ではまだまだ事件を知らない人、強制労働の史実を知りたくない人も多く、運動が下北で幅広く支持されるのは容易でなく、当初から目標としていた浮島丸出港地点の記念碑の建設計画もはかどらず、厳しい現実にも直面していた。

 青森県むつ市 旧南部藩・斗南藩ゆかりの町「田名部(たなぶ)町」と、旧海軍の町「大湊町」が、1959(昭和34)年9月に合併し、「大湊田名部市」となった。翌年の60年に日本で最初のひらがな市名の「むつ市」と改称。平成の大合併が進む2005年、むつ市と川内町、大畑町、脇野沢村の四市町が合併し、いまの市域のむつ市が生まれた。8月末現在の人口は6万3893人。

写真左=「アイゴーの海」の編集会議に集まった市民たち(1992年、 下北の地域文化研究所の同書より)
写真右=映画「エイジアン・ブルー」の下北ロケ。飯場のシーンが撮影された(1995年、浮島丸下北の会提供)



レシピ歌詞に
まいづる肉じゃがでフィーバー
PR曲完成、CD販売中
10月22日
ダンスコンテスト、応募呼びかける
 まいづる肉じゃがまつり実行委員会(伊庭節子会長)は、肉じゃがの元祖・舞鶴と作り方を歌ったPR曲「まいづる肉じゃがフィーバー」を制作し、CDを販売している。ディスコ調のメロディーでレシピを盛り込んだ。10月22日には曲に合わせたダンスの振り付けコンテストを行う。応募を呼びかけている。  伊庭さんの依頼を受けた大阪市の作曲家、柏木るざりんさんが作詞・作曲・編曲を担当。歌は。Ciel(しえる)さんが吹き込んだ。曲は2番まであり、1番で「まずは油を熱して 3分 牛肉を入れる」「7分 お砂糖で甘く 10分 お醤油でキラリ味付け」と歌い、2番では「海軍さんの知恵と 優しさから生まれた 我ら日本が誇る名料理」と続く。  歌詞カードの裏には肉じゃの調理手順と分量が詳しく解説され、作り方のこだわりも紹介されている。CDは1000枚作成し、 1枚500円。まいづる智恵蔵などで販売している。  肉じゃがダンスの振り付けは歌のイメージに合うもの▽子供から大人まで踊れるもの▽踊る人も見る人も楽しく元気が沸いてくるもの。コンテストは10月22日午後1時半から浜の東公民館で。最優秀者には賞金3万円を贈る。同月29日に市内で開かれる国民文化祭赤れんがアートフェスで披露する。申し込みは同月20日までに。応募者には曲のCDをプレゼントする。
【問い合わせ】電話62・2336、同実行委員会
写真=販売された「まいづる肉じゃがフィーバー」のCD


2011年9月20日

【復興支援で立ち上がる】

支援会とハット倶楽部
イベント第2弾
10月2日
バザーと帽子ファッションショー
出店者、モデル募る
まいづる智恵蔵と市政記念館で開催
 東日本大震災の被災地を支援するチャリティーイベント&バザーの第2弾が、東日本大震災「舞鶴支援会」(南賀子代表)の手で準備が進んでいる。10月2日、北吸のまいづる智恵蔵で主旨に賛同した市内の店舗が品物を販売したり、ハット倶楽部(よしだ敦子代表)が市政記念館で帽子のファッションショーや演奏会をする。入場無料。バザー出店者やモデルも募っている。  同支援会のイベントは4月に開かれ、約85万円を寄付。今回も市内のパン、お菓子、工芸品などの店舗が商品を販売するほか、市民が持ち寄った品物のバザー、タロット占いなどのイベントを行う。午後1時〜同4時。当日の手伝いをしてくれる人も呼びかけている。  ショーは昨年2月に続いて2回目。洋裁教室主宰のよしださん(59)=七条中町=、ハンド・ニット・スタジオの橋本さとみさん(47)=吉野=、帽子工房の清野麻友子さん(36)=浜=が、フェルト生地を使ったものやニット帽、パッチワーク風の自作の帽子を出品する。  モデルは老若男女を問わない。持参した帽子で出演できるほか、3人が作ったものもかぶれる。ネットモデルも出演する予定。リハーサルは午前11時から。ショーは午後1時半と同3時からの2回。参加モデルにはプロカメラマンが撮影した写真をプレゼントする。  よしださんは教室生たちと三角クッションを手作りし、4月から毎月50個を岩手県大船渡市に送る活動を続け、7月には直接届けた。ショーの前にその活動を報告する。また、立道明美さんが箏を演奏、ハット倶楽部のオリジナルキャラクター入りのバッグ販売もある。全ての売上金は、被災地で支援活動をするNPO法人難民を助ける会に支援金として寄付する。  よしださんは「被災地へ行って私たちにできることがあると思った。今後も継続して支援を続けたい」、橋本さんは「原発事故で自宅に戻れない人がいる現実に、舞鶴も人ごとではないと胸が痛みます。少しでも多くの義援金が集まれば」、清野さんは「ファッションショーを通して継続して被災者への思いを持ってもらえる機会にしたい」と話す。
 出店者などの問い合わせは南さん(電話080・5348・9322)、モデルの申し込みはよしださん(電話090・8230・3030)。
写真左=帽子を出品するよしださん、橋本さん、清野さん(左から)
写真右=ハット倶楽部のキャラクターも作った



再び被災地へ思いを
作家らチャリティー作品展
9月23〜25日 サンムーンで
 府北部在住のアーティストたちが中心になって、東日本大震災の被災地を支援するチャリティー作品展の第2回が、9月23日〜25日、浜のギャラリー・サンムーンで開かれる。前回4月よりも多くの作家が協力を申し出ており、再び被災地への関心を寄せてほしいと来場を呼びかけている。  サンムーンで作品展を開いた作家や親交のある市民らが実行委員会(谷公人代表)を作り、画廊オーナーの佐藤保明さんも無償で会場を提供し四月に開いた。売り上げの全額約80万円を、被災地で支援活動をするNPO法人難民を助ける会に寄付した。  今回は地元はじめ、近隣や京都など20人を超える作家らが賛同。木工や陶芸、絵画、立体、和カバンなどを購入しやすい価格で寄せる。収益金の全てを同じく助ける会に送る。  9月24日午後2時から作家との交流会、ジャズピアノ演奏会もする。入場無料。3日とも午前11時〜午後5時。
【問い合わせ】電話63・4858、サンムーン
写真=作家たちから寄せられた作品


NPO難民を助ける会
「六花亭製菓」とコラボで
チャリティーチョコ
10月2日のイベントでも販売
 東北の被災地で支援活動をするNPO法人難民を助ける会は、北海道の銘菓店「六花亭製菓」(帯広市)と協力し、チャリティーチョコレートの販売を始めた。収益金は同会の支援活動に役立てる。10月2日のチャリティーイベント&バザーでも販売する。  六花亭の人気商品「カラフルマンス」から、ラズベリーやマンゴーなど6種類の味を選び18枚を詰めた。商品のパッケージには、葉祥明さんの絵本『地雷ではなく花をください』の原画を用いた。  1箱500円。北吸のカフェ「ジャズ」でも扱う。置いてくれる店や購入予約を受け付けている。発送は10月5日から。同会西日本担当理事の鷲田マリさん=丸山西町=は「素敵なチョコレートを通してぜひ被災地支援に協力を」と呼びかけている。 【問い合わせ】電話03・5423・4511、同会
写真=販売されるチャリティーチョコ



2011年9月16日

浮島丸事件 下北からの報告
B建設現場の実態

暴力で過酷な労働強いる
下北の人、かくまい逃走手助けも
巨大なアーチ橋、強制労働伝える
舞I市民 重い歴史受け止め
 朝鮮人労働者たちは鉄道や海軍ドック、飛行場などの建設現場でどんな作業の毎日を送っていたのか。前出の『アイゴーの海』に地元の人たちが目撃した様子を証言している。  「タゴ(タコ)」と呼ばれた労働者たちは、2人が1本の丸太に吊るしたモッコで土を担いで運んだ。背負子のむき出しになった針金の紐が、上半身裸の肉に食い込み血が流れ、時には化膿して膿がダラダラと背中を伝い、その中をうじがうごめく。履物はほとんどの者が裸足にセメントの袋を履いて、縄でぐるぐる巻きにして歩いていた。  作業現場には監視をする棒頭(ぼうがしら)が必ずおり、動作が鈍い者などを容赦なく棍棒で殴りつけた。大湊の海軍病院に勤務した元看護婦は「棒頭に殴られてよく手や足の骨を折られて治療に担ぎ込まれてきた」という。  こうした労働にたまりかね、逃亡する朝鮮人も多かったとされる。逃亡者が出ると作業を中断して全員で追跡した。下北は要塞地帯であるが故、警察や憲兵の監視が厳しく逃亡は困難だった。捕まると見せしめのため激しいリンチが加えられた。  そんな中でも逃げてきた朝鮮人をかくまい、逃亡を手助けした下北の人たちもいる。ある漁師は日本人の漁師の格好をさせ、船に乗せて北海道へ逃がした。イカ漁の盛んな大畑町で暮らす漁師らの七軒番屋では、近くの飯場で生活する朝鮮人労働者たちを呼び寄せ、一緒に食事をするなど親交を持った。  最も過酷だったのが大間鉄道建設。下北から半島最北端の大間までの約50キロの路線。1937(昭和12年)ごろ着工し、39年12月に下北駅〜大畑駅が開通。その後も建設は続けられたが43年12月工事は中止に。トンネル工事などで多くの犠牲者を生んだ。  舞鶴の一行は8月27日、事件を語り伝える「浮島丸下北の会」の案内で、鉄道跡などを見て回った。風間浦村下風呂の12連アーチ橋は、1億2千万円をかけ94年に修復工事が完了し、現在は長さ270メートル、幅3メートルのメモリアルロードとして保存されている。  むつ市大畑町に残る二枚橋のアーチ橋(長さ101.5メートル)。下風呂アーチ橋と同じく、鉄筋は入っておらず木枠にセメントを流し込み、積み上げていったコンクリート製だ。足場を組み重い資材を運び上げたが、高い陸橋から落ちて大けがをしたり死ぬ者もいた。  風雪に耐え一部が黒ずんでいる。下北の会で保存を陳情したが、地元は取り壊しを要望している。強制労働を伝える巨大なモニュメントのようにそびえ立ち、当時を容易に思い起こさせる橋の存在に市民らは圧倒された。  最後に訪れたのは、沖合に停泊中の「浮島丸」に乗船するため集まった菊池桟橋跡。小さな桟橋が帰国を待ち望む人たちで身動きできない状態だった。桟橋はすでになく、海岸部は埋めたてられ駐車場になっている。  下北の会の斎藤作治さん(81)=むつ市=は、防空壕掘りなどをさせられたキム・スゴンさんが47年ぶりに下北を訪れたときのことを語った。「菊池桟橋跡に立ったスゴンさんは『我々が強制連行されて、つらい労働をここでさせられたということを、日本人と下北の人たちは忘れないでほしい』という言葉を残していきました。それが私の浮島丸運動のバネになっています」  紙芝居上演スタッフとして参加した真下洋子さん(63)=伊佐津=は「辛い労働をさせられ、やっと故郷に帰れるという喜びで桟橋に集まって来る姿、そして船が沈んで絶望に変わる様子までもが目に見えるようでした」と話す。舞鶴市民の一人一人の胸に、建設現場跡に刻まれた重い歴史と下北の人たちの言葉がしっかりと届いた。
写真左=朝鮮人らにより造られたコンクリート製の二枚橋アーチ橋(むつ市)
写真右=アーチ橋での危険な作業の様子を描いた紙芝居の一場面(絵・余江美穂子さん)



カワイ・ダンス・エージェンシー
5チーム、1位や上位占める
新メンバーで挑んだ
チアダンス関西大会で
 チアダンスのUSAジュニア・チャレンジ・コンペティション関西大会が8月、森口市で開かれ、舞鶴や福知山などの園児、小・中学生たちでつくる5チームが1位や上位入賞をする活躍を見せた。  川井千枝さん主宰の「カワイ・ダンス・エージェンシー」で指導を受けている。今春から新メンバーとなり短い練習時間の中で、息の合った演技に仕上げた。  中学生の大編成部門で「クイーンベリーズ」が1位、小学生の大編成部門で「ゴールデンベリーズ」が1位、小学生以下の小編成部門で「ミニベリーズ」が2位、「ラブベリーズ」が3位、小学1年〜幼稚園の「オレンジベリーズ」がチームワークを評価されベストインプレッション賞を受賞した。  川井さんは「今年1年のよいスタートが切れました。他チームから目標にされており、選手たちも気合が入りました」と話す。
舞鶴の選手は次の皆さん。
【クイーンベリーズ】奥野祐奈(城北中)田野島遥夏(青葉中)
【ゴールデンベリーズ】金田ありさ(高野小)植田光波(吉原小)藤本栞緒(中筋小)
【ミニベリーズ】東凛香(中筋小)松本真凛(同)林田恵麻(中舞鶴小)金田玲奈(高野小)奥野美桜(福井小)
【ラブベリーズ】西出葵(中筋小)植田藍海(吉原小)山本心晴(志楽小)
【オレンジベリーズ】宮田心愛(志楽小)坪内乃愛(中舞鶴小)白土真珠(橘幼稚園)池田美咲(同)杉田日菜(同)
写真左=クイーンベリーズ
写真右=ゴールデンベリーズ


2011年9月13日

中学校給食アンケート結果
保護者7割実施に賛成
教職員約7割弱、実施に反対
第1回懇話会で公表、来年3月に方針を提出
 中学校での給食実施に向けた市教委の諮問機関の「市立中学校給食推進懇話会」の第1回会議が9月8日、北吸の市役所であった。市教委が行った学校給食に関するアンケート調査の結果が公表された。学校給食について保護者の約七割強が「実施した方がよい」としたのに対し、教職員の約7割弱が「実施しない方がよい」と対照的な回答となっている。  市内の中学校では加佐中で牛乳を提供しているだけで、家庭からの弁当持参を原則にしているが、持参しない生徒の中にはパンだけの簡単な食事で済ませるだけの子もおり、栄養バランスのある昼食の提供が課題になっていた。懇話会は学識経験者やPTA、学校関係者、栄養教諭ら11人で構成、元教育長の小林舜治・市社会福祉協議会会長が会長に選ばれた。  全学校の中学生と保護者、常勤の教職員に給食に関するアンケートを7月に実施。回収率は生徒90.4%、保護者65.2%、教職員83.1%だった。  「実施する方がよい」としたのは保護者72.3%、生徒30%、教職員21.6%。その理由を複数回答で問うたところ、「栄養のバランスがよい」「家庭での弁当作りの負担が軽減される」が3者ともに多くを占めた。また、教職員は「昼食が十分摂れていない生徒がいるから」と48.6%が回答した。  「実施しない方がよい」としたのは教職員66.7%、生徒25.1%、保護者4.4%。その理由(複数回答)として「配膳に時間がかかる」のほか、生徒は「好みに合わない」が44.6%、保護者は「家庭で作った弁当を食べさせたい」が47.3%、教職員は「給食費の徴収が困難」が63%、「教職員の負担が増える」が40.7%。  PTAの委員からは「お弁当を通して親子の会話の機会になっている」、栄養教諭の委員は「給食で食べるまでブドウを食べたことのない小学生がいた。給食は様々なものを食べる体験の機会にもなっている」と意見を交わした。  市教委から給食導入で配膳時間がかかるため、昼休みを利用しての生徒指導など学校運営への影響、1食あたり食材費として300円前後の保護者負担と管理運営費など市の負担の発生などが指摘された。今後8回の懇話会を開き、先進校の視察や実施方法の検討をし、来年3月に方針を提出する。

小学校でもアンケートを
給食考える市民たち
早期実現へ意見交換
市民らでつくる「中学校給食を考える会」の意見交換会が9月9日夜、森の南公民館であった。懇話会の会合を傍聴した同会代表の南賀子(よしこ)さんが市教委のアンケートの結果などを報告し、出席した母親6人が早期の中学校給食の実現に向け話し合った。  報告を受けた出席者からは、「アンケートは中学校だけでなく、これから提供を受ける小学校の子供や保護者にもすべき」「義務教育の中学校での給食提供は特別なことではない」「先生の負担を軽減するため保護者も関心を寄せて一緒に考えるべき」「35分の給食時間は短すぎる。小学校でも次の授業の準備があると食べる時間がなく残してくることもある」などの意見が出た。  南さんは「教職員の負担増といったデメリットをクリアするため、懇話会で突っ込んだ意見、検討を期待し今後も見守っていきたい。また、この問題を多くの母親たちにも知ってもらい、早期の給食実現のため保護者の声を発信したい」と話す。

写真=話し合う懇話会の委員たち



脱原発へ活発な議論
ピースプロジェクトの会合に約30人
京都市など南部住民も参加
 脱原発へ向け活動している市民たちでつくる「舞鶴ピースプロジェクト」が9月8日夜、河原の岡田中基幹集落センターでミーティングを開いた。京都市のNGO「グリーン・アクション」代表で環境ジャーナリストのアイリーン・美緒子・スミスさん、南丹市や京丹波市などの市民グループの代表者ら約30人が集まり、活発な意見を交わして連携を強めた。  アイリーンさんは世界的に活躍した写真家で夫のユージン・スミスさんと水俣公害の取材・撮影に取り組んだ。また、米国スリーマイル島原発事故では調査のため現地に1年間居住し住民にインタビューをした。この日の会合では「舞鶴など府北部は脱原発運動にとって重要な地域。なぜなら浜岡に次いで大地震の危険が若狭にあるから。一番リアルに原発事故の問題を感じられるのがこの地域だ」とした。  また、今夏節電が呼びかけられた一方、事故の影響で再稼動されない原発が増えた現実を踏まえ、「いま全国で11基しか原発は動いてないが、これでこの夏の電力は乗り切れた」と指摘した。  「原発なしで暮らしたい丹波の会」の児玉正人さんは「原発なきあとのまちの再生を地元で考えなければならない。舞鶴での活動に南部の人たちも関心を寄せ交流を提案している」と語った。同プロジェクトの村本敏さんらは「舞鶴は世界でも最多の14基の原発に隣接する特別な地域。市民、行政と一体となれるテーマを見つけ取り組みたい」と話した。

10月2日、講演会
「若狭の原発と、私たちの未来」
宮津市鶴賀「みやづ歴史の館」で
 宮津市民らでつくる「アイリーン・美緒子・スミスさんのお話を聞く会」主催の講演会「若狭の原発と、私たちの未来」が、10月2日午後2時〜同4時、宮津市鶴賀のみやづ歴史の館で開かれる。入場無料。託児(事前予約)・手話もある。
【問い合わせ】電話0772・46・5048、吉田さん

写真=意見を述べる京都市の環境ジャーナリストのアイリーンさん


2011年9月9日

浮島丸事件 下北からの報告
A日本の戦況悪化と植民地支配

本土決戦備え下北を砦に
不足する労働力、朝鮮半島から
隧道、ドック、鉄道工事へ
軍と民間建設会社、大量に動員
 太平洋戦争末期の一時期、4千人もの朝鮮人とその家族が下北半島にいたのはなぜだろうか。下北が軍事拠点だったという理由だけでなく、当時の日本の戦況悪化と日本による朝鮮半島の植民地支配という2つの背景を抜きには語れない。  大湊海軍警備府は樺太などの北方領域を担当していたが、1943(昭和18)年5月にアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅。日本軍は国防ラインを千島列島に後退させるが戦況はさらに厳しさを増し、大本営は45年1月、米軍の本土上陸を想定した本土決戦体制を指令する。  これを受け大湊警備府はこの地の将兵5〜6万人が3カ月間、外部からの一切の補給なしに敵の攻撃に持ちこたえる作戦を決定し、武器・弾薬・食糧などを備蓄するため、各地から大湊に物資を送らせた。この時期、頻発する米軍の空襲による被害を避けるため、地下に貯蔵する隧道(ずいどう)が必要となった。  しかし、国内の多くの働き手が軍人・軍属(軍人以外で軍隊に所属する者)として徴用され労働力が不足していたため、多くの朝鮮人を下北に集め、隧道工事のほか海軍の1万トンドックなどの工事にも使役した。  明治時代、富国強兵策をとる日本は朝鮮半島をめぐってロシア、中国と争う中、1910(明治43)年、韓国(日韓)併合を行い大陸へ進出。植民地化した半島で朝鮮人は土地と仕事を奪われ、日本に渡って仕事を求めたり、朝鮮でも施行された徴兵制と徴用令によって日本に動員された。  ここ下北の海軍施設部と、鉄道などの工事を請け負った民間の建設会社 が朝鮮で労働者を募集した。その後、朝鮮総督府の主導の下で行政らも協力して労働者を選んだ官斡旋、次に法的強制力を伴った徴用で集めた。募集や官斡旋に自ら応じたように見えるが、下北で働いた朝鮮人たちの実態を聞き取り調査し記録した本『アイゴーの海』(下北の地域文化研究所)に、実際はそうではなかった証言も寄せられている。  朝鮮の村役場に人数の割り当てをして集めるように依頼しても集まらない場合、無理やりつれてきたケース、また集まった村人にすぐに作業服を着せ、釜山から船で下関へ、そして汽車で3、4日かけ下北へ運ぶ途中、逃げられないように見張りを立てた。それでも海に飛び込んだり列車の窓から飛び降り逃げる者もいた。募集担当者の証言だ。命がけで逃亡した事実が、「募集」の実態を語っているのではないだろうか。さらに、金につられ、だまされた日本人なども強制労働をさせられていた。  青森三沢で飛行機を隠す壕を作ったキム・テソクさんが、1992年8月韓国から再び三沢を訪れた。6カ月の約束で徴用され、監督の軍人に期間が過ぎたので帰してほしいと言うと、「『お前たちも天皇の軍人なのに、そんなつまらんことを言うのか』と殴られた。配給の米は幹部の者に取られ、我々は芋とカボチャばかり食っていた」と語った。47年前の忘れていた記憶がこの地を踏んだことで一気に蘇り、涙を流す姿を下北の人たちはいまもはっきりと覚えている。

 国民徴用令 日中、太平洋戦争の長期化で労働力不足に陥ったため、政府が1939(昭和14)年に制定し、国民を強制的に軍需産業を中心に業務に動員した。民間の施設や船舶なども対象となる。商船だった「浮島丸」もその一例。44年には日本の植民地の朝鮮半島でも徴用令が施行された。

写真左=ふもとに武器などを備蓄した隧道を掘った標高879メートルの釜臥山(むつ市)
写真右=当時、東洋一の規模とされた大湊海軍の1万トンドック。作業中に20人の朝鮮人が亡くなった(下北の地域文化研究所「アイゴーの海」より)



献茶式 平和の願い伝えたい
最終船「白山丸」が入港した「9月7日」
引き揚げのまち語り継ぐ
 引き揚げの歴史を語り継ごうと、「第3回引き揚げのまち舞鶴 献茶式」が9月7日、平の引揚記念公園内石のモニュメント前で開かれ、約150人が参加した。舞鶴市文化協会茶道連盟の会員による献茶が行われたり、地元の小・中学生がメッセージを述べた。  舞鶴港は1945年10月から58年まで、旧ソ連などから引揚者を迎え入れた。亡くなった茶道・華道教授の木村千代子さんが花とお茶で引揚者を迎えたことから、最終船「白山丸」が入港した9月7日に合わせ、市文化事業団が献茶式を開いている。  参加者全員が黙祷した後、献茶に続き華道連盟の会員たちも献花した。若浦中学校生徒会長の猪野貴利さん(3年生)が「決して忘れることのないように心に深く刻み、継承して行かなければと決意した」、大浦小学校児童会会長の浅尾七海さん(6年生)と副会長の小田英理華さん(同)が「舞鶴で学んだ平和の願いを伝えていくことが私たちの使命。未来は私たちがつくります。任せてください」と力強く述べた。
写真=メッセージを述べた大浦小の児童たち


2011年9月6日

関西オープンで優勝
舞鶴グリーンテニスクラブコーチの大滝さん
男子ダブルスで
奈良の選手と組み、全日本ベテラン選手権出場へ
 倉谷の舞鶴グリーンテニスクラブ(寺内寿明代表)のコーチ、大滝直義さん(36)が、TS奈良テニスクラブの神田寛之さん(38)と組む男子ダブルスで、関西オープンテニス選手権ベテランの部(35歳以上)で優勝。10月に名古屋市で開催されるテイジン日本ベテラン選手権に2年連続出場を決めた。  大滝さんは、小学4年生から同クラブに所属してテニスを始め、西舞鶴高、京都産業大でも活躍した。その後、一時実業団に入ったが、舞鶴にUターンして同クラブで指導に当たっている。  神田さんとは、国体出場を機に知り合い、ペアを組んで2年目。舞鶴、奈良と練習拠点は離れており、一緒に練習する機会はほとんどないが、神田さんの安定したプレーと、大滝さんの意表をついたプレーのコンビネーションは抜群。  2人は、昨年の毎日オープンに優勝、日本ベテラン選手権に出場してベスト4に入った。今年は5月の毎日オープンで準優勝、8月の関西オープンで優勝。各大会の結果を基に、ランキング上位16組で争うベテラン選手権の出場を決めた。  大滝さんは「関西選手権では、毎日オープンで敗れたペアにワンチャンスを生かして逆転勝ちした。ベテラン選手権では、昨年準決勝で敗れた雪辱を果たしたい」と話す。
 全日本ベテラン選手権は、10月3日〜13日、名古屋市の東山公園テニスセンターで開催される。
写真=関西オープンを制した大滝さん



日本とロシアの友好を
引揚記念館で
シベリア抑留伝える絵本の原画展
10月31日まで
 絵本「シベリア抑留って?」の原画を展示した企画展が、平の舞鶴引揚記念館で開かれている。祖母が孫の子供たちに語りかける形で、収容所の生活や墓参、日本とロシアの人たちとの友好を深める大切さをわかりやすく伝えている。  京都シベリア抑留死亡者遺族の会の亀井励さんが文をつくり、児童マンガや新聞へのマンガ連載などで活躍した木川かえるさんが絵を担当し、2000年に絵本を発行した。  展示されているのは水彩絵の具で描かれた原画15点。祖母が孫の真琴とロシア人の友達マーシャに向かって、戦地に出兵しシベリアに抑留され現地で亡くなった父のことを語るストーリー。  父の最期を看取った引揚者から聞いた食料不足で暖かいご飯と甘いぼたもちが夢に出てきた生活、ロシアの日本人墓地に墓参に行った時にロシア人も花を手向けに訪れていたこと、若いロシア人の中には抑留の史実を知らない人も多く、日本人とロシア人、そしてもっと多くの国の人たちが仲良くして、悲惨な戦争が起こらないようにと結んでいる。  企画展は10月31日まで。午前9時〜午後5時半。入館料大人300円、学生150円。
【問い合わせ】電話68・0836、同館
写真=抑留を語りながら友好を呼びかける原画


2011年9月2日

浮島丸事件 下北からの報告
@北方警備のかなめ
〜南下するロシアの津軽海峡への侵入を防ぐ〜
寒村から軍港へ、舞Iと重なる
 過酷な労働を強いられた朝鮮人たちを乗せた船「浮島丸」が出港した青森県下北半島むつと、船が爆沈し多くの犠牲者を出した舞鶴。この浮島丸事件を題材にした紙芝居を、舞鶴市民14人が8月、むつ市を訪れ上演した。なぜこの地に多くの朝鮮人がいたのか、そこで何があったのか、事件を語り継ぐ下北の人たちの思いとは。紙芝居を携え出発した「浮島丸殉難者を追悼する会」に同行し下北で取材した。  まさかりの形をした本州最北端の下北半島。毎年のように吹くヤマセ(偏東風)と言われる冷たい風によって、青森県の中でも冷害が最も多い厳しい北辺の地だ。ここに終戦時、大湊海軍の軍属・徴用工、鉄道建設の作業員などとして、朝鮮人労働者が約4000人いたと推定されている。下北が海軍の拠点となった経過を見てみよう。  下北の地は、江戸期に北海道の松前船や上方船が寄港する交通の要衝となった。その後、日清戦争に勝った日本は、南下するロシアの津軽海峡への侵入を防ぐため、1902(明治35)年に寒村の大湊に北方警備の要として水雷団を設置。05年に要港部へ格上げ、41年大湊海軍警備府へ改編した。警備府の置かれた大湊町(現むつ市)の当時の人口は約8万人、この内軍人は約6万人と圧倒的な数を占めた。  また、大湊町だけでなく下北半島全体が要塞地帯に指定され、津軽海峡を挟み大間と函館に陸軍の砲台を備え、海峡を通過するロシア艦隊を撃退しようとした。これら要塞に物資などを運ぶため、国鉄軍港線の大間鉄道が下北に、函館には戸井鉄道の建設が進められ、「兄弟線」と呼ばれた。  北前船の寄港地の歴史、寒村から軍港への変遷、軍事鉄道の敷設、徴用や学徒動員という名の強制的な労働、特攻艇「震洋(しんよう)」の製造、巡洋艦などが狙われ約130人の犠牲者が出た大湊空襲と模擬原爆が投下された舞鶴空襲、戦後は海上自衛隊地方隊へ。  下北の郷土史家で、浮島丸事件の調査に40年以上取り組む鳴海健太郎さん(80)=むつ市=から湧き出るような説明を聞き、浮島丸だけではない下北と舞鶴との共通点が多く浮かび上がる。戦争は地域を軍事拠点へと変貌させ、そこに暮らす人々に深い爪跡と計り知れない影響を与え、形成された社会構造がいまも残っていることを二つの地域の歴史が示している。  鳴海さんはもう1つの共通点を今度は楽しそうに口にした。水上勉の小説で映画化された「飢餓海峡」。戦後の混乱期を背景に、下北と舞鶴を舞台にしている。「今夜は『飢餓海峡』のことでも多いに語りましょう」。無尽蔵の知識と歴史が詰まる図書館のような存在だ。  浮島丸事件 朝鮮人労働者と家族を朝鮮半島に帰国させるため、海軍特設輸送艦「浮島丸」(4730トン)が1945年8月22日、青森県大湊港を出港。釜山に向かう途中で針路を変えて舞鶴湾に入港し下佐波賀沖で謎の爆発・沈没をし、朝鮮人524人、日本人乗組員25人が亡くなった。
写真左=下北と海軍の歴史を語ったむつ市の鳴海さん(左)
写真右=昭和14年頃、風間浦村桑畑での大間鉄道建設現場(下北の地域文化研究所「アイゴーの海」より)



舞鶴支援学校高等部
職業訓練の製品販売や製作実演
生徒たちが接遇学習
9月7、8日に京都大丸で成果発表
 府立特別支援学校の職業訓練などの学習成果を発表する「ふれあい・心のステーション」(府教委主催)に向け、堀の舞鶴支援学校高等部の生徒たちが、自分たちの製品を販売するため、接客マナーなど接遇学習に取り組んでいる。  ふれあい・心のステーションは、府立特別支援学校が一堂に会して、生徒たちが職業訓練で製作した製品の販売や製作実演を行う年1回の恒例行事。今回で16回目を迎え、9月7、8日の2日間、京都市の大丸京都店で開かれる。  舞鶴支援学校高等部では、ユニバーサルデザインの陶器の皿やコップの食器類、傘立て、ステンドグラスのランプなどのガラス工芸品、藍染めや柿渋染めのポーチなど約1000点を販売する。  接遇学習には、販売や製作実演を行う職業自立コースと生活自立コースの生徒25人が参加。デパート勤務の経験がある同校事務職員の阪昌代さんから接遇の基本の笑顔やあいさつなどを教わった後、実際に製品を並べて、接客から代金の受け取り、釣り銭と商品の引渡しの手順を確認した。
写真=接客について学習する生徒たち


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