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2011年10月28日

浮島丸事件 下北からの報告
H絆強めた下北と舞鶴

下北から元気持ち帰る
舞Iから刺激で、来年大事業へ
11月13日 下北の報告会
西総合会館で体験伝える
 下北の滞在期間はたった1日半だったにも関わらず、強制労働という重い歴史を見聞きし、下北の人たちの熱い気持ちに触れ、舞鶴市民1人1人の心に湧き上がるものがあった。11月13日に西総合会館で報告会を開き、その想いを伝える。  浮島丸事件の運動では、舞鶴の追悼集会の歴史は長く規模は今夏で300人、対して下北はその10分の1。強制労働を課した地での運動は厳しい状況だと伝え聞いていた。それ故、「下北を励まそう」と舞鶴から訪れたのだが、大きな誤解をしていたことが分かった。  朝鮮人労働者たちを身近に感じ、帰国の喜びが悲しみへと変わった事件を知ったことで、だからこそ伝えなければならないと強く考える人たちが下北にいる。そんな姿に舞鶴の一行は逆に勇気づけられた。  参加者の中で最年長の廣瀬善之さん(77)=行永。父の忠之さんは海軍に徴用された商船の機関長だったが、1943年12月、台湾沖のバシー海峡で米軍の潜水艦によって沈められ亡くなった。今年3月、洋上慰霊に参加し、「海に向かって心の内で『オヤジー』と叫んでいた」。それだけに「浮島丸」の犠牲者たちに父の姿を重ね、今回の旅で追悼事業に臨む気持ちを新たにした。  上演メンバーの野垣幸子さん(66)=上東=。「下北を見たことで、紙芝居の言葉1つ1つに真実の重さを持つことができた。私の住む加佐地域では事件のことがほとんど知られていない。集会だけでなく、映画上映などを通じて伝えていければ」と話す。  一方、紙芝居は下北にも大きなインパクトを与えた。事件の生存者に会うため韓国を訪れた佐藤ミドリさん(67)=むつ市=は、「舞鶴の方からとても刺激を受けた。事件について調べてきたことをまとめ、皆さんとつながっていきたい」と力強く述べた。  浮島丸下北の会代表の村上準一さん(64)の声も弾む。「紙芝居を見た人から当時の体験が寄せられ、私達が掘り起こしていない証言があることを知り、改めて聞き取り調査の必要を感じている。紙芝居を各地域で上演するため、いただいた紙芝居のDVDの活用を進めたい」   80代コンビの鳴海健太郎さんは、新資料の発掘と調査資料をまとめることに、斎藤作治さんも追悼事業に気持ちを入れ直し、下北の総合調査にとそれぞれ意欲を燃やす。また、上演前夜の交流会に出席した下北市民の中には、来年の舞鶴の追悼集会に参加をと約束を交わした人もいた。  下北の会は来年8月の集会に向け、大きな課題に取り組む。長年切望していた浮島丸出港地点の記念碑を建てること、終戦までの小学生時代を大湊で過ごし、「浮島丸」の爆沈で母と姉、妹を亡くしたチャン・ヨンドさんを韓国からむつに招いて交流を計画する。

 浮島丸殉難者を追悼する会(余江勝彦会長)は、下北での紙芝居上演と下北市民との交流、現地見学の報告会を、11月13日午後1時〜同2時半、南田辺の西総合会館で開く。紙芝居の上演をするほか、現地の様子を映像で紹介し、参加者たちが体験を語る。入場無料。
【問い合わせ】電話63・2539、余江さん

写真=上演前日の交流会で、下北の会の会員たちに、紙芝居を披露した舞I市民たち(8月27日、むつ市)



まいづるRB
種船(TANeFUNe)ドック入り
プロの洗礼 和田造船でFRP加工
10月30日、芝生広場前の海で着水式
 まいづるRBの種船プロジェクトで、船の船体づくりが、10月24日〜27日、和田の和田造船で行われた。職人の手によって船体外側が強化プラスチック(FRP)で加工され、塗装が施された。10月29日の赤れんがアートフェスティバルで、智恵蔵北側の芝生広場に展示され、30日に着水式がある。  昨年は実物大の模型船をつくり、今年からは自走型の船を設計から完成させる。プロや市民、アーティストらが協力して取り組む。船上部を覆う種衣づくりのワークショップも、8月から継続して続けている。  船体のベースとなる船穀(せんこく)は、建築業や看板業の市民3人が発泡スチロールで作り上げ、和田造船でその上にFRPのシートを6層貼り付け乾燥させ、安定翼の取り付けや塗装をした。大きさは幅2.7メートル、長さ6メートル、深さ70センチ。  両日も芝生広場で船づくりのワークシップを開き、10月30日午後1時半に広場前の海に浮かべる。その後、広場の特設造船所などでデッキや操舵室などを作り、来年5月末ごろの出港を目指す。
写真=和田造船でFRP加工される種船


2011年10月25日

長年のまちづくり評価受ける
赤煉瓦倶楽部舞Iに「第1回田村明賞」
調査研究、シンポなどで魅力発見
 NPO法人赤煉瓦倶楽部舞鶴(馬場英男理事長、会員70人)が、まちづくりに貢献した個人・団体を顕彰する第1回「田村明まちづくり賞」を、このほど自治体学会から贈られた。同倶楽部が赤れんがを活用した活動をスタートさせるきっかけとなった時から、法政大学教授などを歴任した田村さんにアドバイスを受けてきた縁があり、記念すべき第1回の受賞をさらなる取り組みの励みにしたいとしている。  田村さんは横浜市企画調整局長などを務め、自治体学会設立にも関わった。2010年1月、83歳で亡くなったが、遺族から基金が提供され、まちづくりの実践に取り組む個人・団体を対象にした「田村明まちづくり賞」が設けられた。  同倶楽部の活動の発端は1988年、市職員らの自主組織「まちづくり推進調査研究会」にさかのぼる。翌年、赤煉瓦倉庫群が残る横浜市を視察・交流して、舞鶴にもある赤煉瓦建物が地域資源であることに気づいた。この時、田村さんに出会って以来助言を受け、調査・研究をした。  91年、市民団体「赤煉瓦倶楽部・舞鶴」を創設。赤煉瓦サマージャズを通して「赤煉瓦の街・舞鶴」の発信に務めた。2000年にNPO法人化した。智恵蔵などの指定管理者として自主企画を打ち出し、昨年はティファニー財団の伝統文化振興賞を受けた。  この間、神崎ホフマン窯が国登録有形文化財に、北吸地区の倉庫群7棟が08年に国重要文化財の指定を受け、市の赤れんがパーク整備も来春完成する。  東京都内の法政大で授賞式があった。馬場理事長は「田村先生からはまちづくりの実践の大切さを教わり、その継続の結果が栄えある第1回に選ばれうれしい。今後も賞に恥じないよう活動を続けたい」と話している。
写真=赤れんがの街・舞Iを発信したジャズ祭(2010年8月、同舞鶴提供)



被災地へ折り鶴5610羽
内7中学校と支援学校中学部
舞中8絆プロジェクト
 東日本大震災の被災地支援活動として、市内の7中学校と舞鶴支援学校中学部の全生徒が、励ましのメッセージを書いた折り鶴を作り、10月21日、伊佐津の西駅交流センターに持ち寄った。折り鶴の総数は5610羽で、義援金も19万6197円が寄せられた。  今年8月に開かれた「中学生の集い」で、東日本大震災の復興支援について話し合い、青葉中生徒会から被災地の中学校に折り鶴を送ったたことが報告された。この取り組みを「舞中8絆プロジェクト」として、市内全校で一斉に行うことを決め、10月14日、生徒たちが大震災のニュース映像などを見て学習した後、心を込めて折り鶴を作った。  この日、各校の生徒代表が、折り鶴を持ち寄り、取り組みの成果を報告。城北中では、地域の人たちからも折り鶴が届いたほか、各校もクラス単位で目標数を決めて折ったという。また、すでに折り鶴を被災地に送った青葉中からは全校生が1人ずつ応援メッセージを書いた色紙の綴りを作った。また、義援金は、アルミ缶回収や校内での募金活動で集めたことが報告された。  折り鶴と義援金は10月26日、市教委を通じて宮城県名取市教委に送り、同市の小、中学校に届けられる。  青葉中2年の山ア万緒さん(14)は「折り鶴で、被災地の同年代の仲間と、心が繋がっていることを伝えたい」と話していた。
写真=折り鶴を持ち寄った各校の生徒代表


2011年10月21日










浮島丸事件 下北からの報告
G約束の紙芝居上演

力強い台詞 下北に響く
観客 臨場感に引き込まれ
地元高校生が取材 映像作品に
 「紙芝居が完成したら、下北に持って来るので見てください」。制作者の余江美穂子さん(67)=白浜台=は2009年10月、下北での取材中、浮島丸下北の会の斎藤作治さん(81)らに約束した。それから約2年後の今年8月28日、その日がきた。  当初、余江さんは案内してくれた数人に見てもらえればいいと思っていたが、下北の会が紙芝居を通して事件のことを多くの人に知ってもらおうと、追悼集会の一環として上演会を企画したのだ。  舞鶴の追悼する会でも、事件の背景や強制労働の現場を肌で感じてもらい、下北市民との交流の場にもしようと、会員らに呼びかけ下北に向かうことに。参加者には大切な役割も任された。紙芝居のナレーションや登場人物を演じる声優だった。  上演を控えた8月28日午前中、青森県立むつ工業高校(むつ市)の国際理解愛好会に所属する高校生3人と顧問の南澤英夫教諭が、余江さんを宿泊先のホテルに訪ねた。クラブ活動として応募する平和祈念映像制作コンクールの作品に浮島丸事件をテーマに選び、紙芝居を取材するためだ。カメラとマイクを手にした高校生たちは、若い人に何を伝えたいかなど次々とインタビューした。  事件のことを授業で知った部員の吉田航さん(18)=東通村=は、「伝えられるべきことが、なぜ伝えられていないのかと思った」とその時のことを振り返る。愛好会リーダーの谷藤将樹さん(18)=むつ市=は「事件を知らなかったことが恥ずかしい。戦争の悲劇を忘れないために、若い世代にこの事実を伝えたい」と話す。  約70人が来場したむつ市立図書館ホール。会場からは「舞鶴から10人以上の人が2泊して来てくれた」と、来訪に感謝と驚きの声が聞かれた。いよいよ上演が始まる。余江さんが紙芝居をめくり、絵が中央のスクリーンにも映し出される中、舞鶴市民6人が代わる代わる物語を朗読する。「皆さん、この像を知っていますか?」。会場に力強い声が響き渡った。「この八人の群像が、私達に何かを必死で伝えようとしています」  舞鶴湾での爆沈と救助活動、戦争の歴史、強制労働が語られていく。来場者たちは次第に引き込まれるように、真剣な眼差しで絵を見つめ、話に耳をすまし、時には涙ぐむ人もいる。  冒頭での問いかけが結ばれる。「そうです。八人の群像は、浮島丸に乗ったすべての朝鮮人、何千人もの人達、ひとりひとりの思いを代弁しているのです。釜山へ帰りたい!故郷へ帰りたい!お父さんお母さんに会いたい!」  大きな拍手が送られ、下北公演の幕が閉じた。会場には、満州からの引揚体験を紙芝居にして、語り継いでいる元小学校教諭の高屋敷八千代さん(74)=むつ市=もいた。「たくさんの人が声を出して演じる方法も紙芝居に有効だとわかった。事件の背景もよく描かれ、魂がこもった上演でした。改めて語り伝えることの大切さを教えてもらいました」  練習で朗読陣をリードした演者の1人、北子郁子さん(74)=行永=は「下北で強制労働の現地を見て、年を取った人たちが語り継いでいこうとする想いを聞き、胸に迫るものがあった。台詞を読んでいく内に涙が溢れてきた」と、メンバーとともに高揚感に包まれた。  後日、下北の会から送られてきた手紙の中に、余江さんを取材した高校生たちの感想文もあった。「実際に紙芝居を見てみるとものすごい迫力でした。声優の皆さんの私たちに伝えようと思う気持ちにとても感動しました」。舞鶴市民の想いを受け取った高校生たちが、どんな作品を仕上げるのか楽しみだ。

写真左=紙芝居の文を朗読する舞I市民たち
写真中=紙芝居の絵を見つめ、話に聴き入る下北市民たち
写真右=余江さんを取材する青森県立むつ工業高校の生徒たち



舞鶴東ロータリークラブ
石油ストーブで暖まって
岩手花巻の被災者へ200台
 東日本大震災の被災者を支援しようと、舞鶴東ロータリークラブ(高田稔会長)が、石油ストーブ200台を岩手県花巻市の仮設住宅で暮らす人たちに贈ることを決め、会員たちが10月19日、浜の家電店からトラックのコンテナに積み込んだ。10月24日に引き渡される。  同クラブが設立50周年の記念事業の1つとして、被災者から要望の多かった石油ストーブを届けることにし、積み立てていた記念事業費の中から約150万円で石油ストーブ200台と乾電池800個を購入した。  花巻市のボランティア団体「とうわボランティアの家」を通じて、必要な被災者に届けられる。高田会長(59)は「東北の冬は厳しいと思いますが、石油ストーブで暖まってもらえれば」と話している。10月24日現地を訪れ、被災者に直接手渡す予定。
写真=仮設住宅で暮らす被災者へ送る石油ストーブをコンテナに積み込む会員たち


2011年10月18日

津波被災の友だちへエール
共同作品やお茶など贈る
岡田小全児童、仙台市の岡田小に
 久田美の岡田小学校(羽賀明子校長)の全校児童86人が、東日本大震災で被災した子供たちを励まそうと、ステンシル版画による共同作品「希望の花」の制作に取り組んだ。また、児童たちで摘み取った地域のお茶とひまわりの種、文房具、PTAが集めた義援金と一緒に、津波の被害を受けた仙台市立岡田小学校へ、10月17日に贈った。息の長い交流と支援の第一歩にしたいとしている。  舞鶴出身の版画家の田主誠さん=茨木市=からステンシル版画の技法の指導を受け、12センチ四方の紙に一人一人が水彩絵の具で刷り込み、梅や椿などの花の絵を描き、「ずっとまいづるからエールを送ります」などのメッセージを書き添え、縦1.1メートル、横1.5メートルの台紙に貼り付け完成させた。やさしい色合いが心を和ませてくれる作品になった。  お茶は地域で摘み取った茶葉を緑茶に加工したもので、10キロを送ることにした。ひまわりの種も学校の畑で育てたものから採種。保護者たちも地震発生後から学校行事ごとに募金活動をして、義援金4万2849円を贈ることにした。  宮城県仙台市宮城野区にある岡田小は215人の児童が在籍する。大震災の津波などで児童1人が亡くなり、自宅を流された被害も出た。学校も1階部分が浸水し、6月10日まで地域の避難所になっていた。  ネットで検索して同名の小学校に寄贈を決め、連絡をすると快く申し入れを受け入れてくれた。6年生の荒賀花子さん(12)、小島幸菜さん(同)、荒堀風花さん(同)は「東北の子供たちが笑顔になるようにと心を込めてつくりました。地域の名産のお茶を味わってほしい」と話していた。  羽賀校長は「毎年お茶を送って、子供たちのつながりが生まれれば」と継続した活動を描いている。
写真=作品や文具などを贈った児童たち



遊び心、胸にいっぱい
佐合さん(岐阜県)陶展 サンムーンで
10月23日まで
 岐阜県美濃加茂市の陶芸家、佐合政昭さん(60)の作品展が、浜のギャラリー・サンムーンで開かれている。世界の文化やアートに触発された自由な発想と遊び心いっぱいのオブジェや動物、カップなどはどれも見る者を楽しくさせてくれる。10月23日まで。  伝統的な美濃焼きをしていたが1985年、ドミニカ共和国にJICAから陶磁器の技術指導へ行き、中南米の文化に大きく影響を受け、帰国後は中央アジアなどで異文化に触れ、ミロやピカソ、五味太郎さんらの面白さを吸収し、新しい陶芸の世界を切り開いている。  3回目の舞鶴の陶展では、狛犬のあ・うんの2つの頭が1つの体にある動物、古代文字の模様をつけた猫など空想の動物人形、ユニークな形のカップや大皿の表と裏にも、標識や顔などを落書きのように描いた作品を展示した。佐合さんは「遊びの感覚で次々とデザインが沸いてきます」と話す。  午前10時〜午後7時(最終日は午後5時)。10月22、23日に画廊に滞在。
【問い合わせ】電話63・4858、サンムーン
写真=空想の動物人形と佐合さん


2011年10月14日












浮島丸事件 下北からの報告
F紙芝居づくり

「私たちの悲しみ無駄にしないで」
碑に向き合い声きく
下北で犠牲者の想いに触れて
 浮島丸事件の真相究明と語り継ぐ活動を続ける下北に対して、事件の犠牲者の追悼事業を中心に取り組む舞鶴の「浮島丸殉難者を追悼する会」。その事業に新たに事件を紙芝居で伝える活動が加わった。下北の市民たちに負けないぐらい、力強い想いが紙芝居の絵に込められている。  追悼する会会員で紙芝居の制作者、余江美穂子さん(67)=白浜台=は2009年10月5日、むつ市にいた。犠牲となった朝鮮人労働者たちの強制労働の現場を取材するためだ。下北の地に降り立ち最初に目に入った風景が、下北半島の霊峰、釜臥山(標高879メートル)だった。  日本へ連行された朝鮮人たちが下関から列車で下北へ到着し、仰ぎ見たであろう釜臥山に、「ふるさと朝鮮の山を思い出した人がいるかもしれない」と、強烈な印象を心に留める。浮島丸下北の会の斎藤作治さん(81)たちから、釜臥山の麓でも武器などを備蓄するトンネルを掘る作業をさせられたことを聞く。  そして飛行場跡、菊池桟橋跡などを次々と見て回る中、いまも残る二枚橋アーチ橋の大きさとアーチの曲線に圧倒され、「朝鮮人労働者の血と汗と涙が染み付いている。ぜひ残してほしい」と強く感じた。黙々とスケッチを重ねる余江さんの様子を、斎藤さんらは静かに見守った。  1978年完成した浮島丸殉難者追悼の碑の像づくりに、多くの学校教諭らが取り組んだが、この中に夫の勝彦さんとともに加わり初めて事件を知った。その後、同会会長を務める夫と一緒に追悼事業を担い、毎年8月24日の集会ではお茶の用意などで運営を支え、教員退職後は碑の立つ公園の草取りを欠かさない。目立たない裏方の役割を果たす姿は控えめながら、追悼への人一倍強い気持ちを募らせていた。  紙芝居を作るきっかけは、追悼集会はテレビ・新聞でも大きく取り上げられているが、舞鶴でもまだまだ事件を知らない人が多く、子供たちや手話サークルで知り合ったろうあ者たちにも、わかりやすく伝えたいと考えたことだった。  朝鮮人労働者たちの行動を追体験するため、下北へは列車で向かい、帰りは船を使って取材した。アーチ橋を描いている時には、重いセメントを担ぎ上げる労働者たちと一緒になって汗を流し、爆沈する船から海に投げ出された約200人を描いた場面では、自分も海の中に沈み叫びたくなるような気持ちで涙が溢れ、救助船が矢のように漕ぎ進むシーンは、一刻も早く助けたい気持ちになった。   韓国釜山の方角に視線を向ける碑に何度も向き合い、帰れなかった1人1人の想いに寄り添った。すると碑が語りかけてきた。「私たちの悲しみを無駄にしないで」。絵筆を握る手に力を与えてくれ、30枚の絵と文の紙芝居「うきしままるじけん」が昨年完成する。  「描き終わった後、数奇な運命をたどった浮島丸に対して、哀しく、愛おしく、何とも言えない想いでいっぱいになった」。上演活動がスタートした。

舞鶴での追悼事業年表
1954年4月 第1回浮島丸殉難者追悼慰霊祭
1978年8月 追悼の碑の除幕式と追悼集会
1989年8月 『浮島丸事件の記録』の本を出版
1995年5月 映画「エイジアン・ブルー」の舞鶴ロケ
1997年8月 青森を訪れ浮島丸下北の会と交流
1998年8月 事件を題材にしたりんご座の舞台公演とシンポジウム。下北の会からも参加
2004年8月 韓国光州市民が訪れ交流と伝統舞踊公演
2005年3月 追悼する会の須永安郎さんが中国北京大学で事件をテーマに講演
2005年8月 中国、韓国からパネラーを迎え東アジア国際シンポジウム

写真左=下北で強烈な印象が残った、むつ市の釜臥山を余江さんがスケッチした絵
写真中=紙芝居を制作した余江さん
写真右=爆沈した「浮島丸」から投げ出された人を佐波賀の村人が救助する紙芝居の場面



日々努力で 空手男子組手2連覇
目標もつ姿、子供らに伝える
内田さん、日本マスターズで
 日本空手協会舞鶴田辺支部長の内田慎一郎さん(49)=境谷=が、このほど石川県加賀市で開かれた日本スポーツマスターズ2011空手道の男子組手2部(45〜49歳)で、昨年に続いて優勝し2連覇を達成した。目標を持ち日々励むことの大切さを子供たちに学んでほしいと、毎年大会にチャレンジしている。  国体で3位などの成績を残し、日本代表にも選ばれた。現在は幼児から一般までの生徒20人を指導し、全国大会にも輩出している。自らも試合に取り組む姿を見せようと、06年の同大会の1部(40〜44歳)で初優勝。その後、優勝から遠ざかるが基礎トレーニングで体力を維持し、昨年四年ぶりに栄冠を手にした。  連覇のプレッシャーを励みに今大会に臨んだ。初戦と準決勝をともに延長戦で勝ち、決勝でも1部優勝経験のある強豪選手と延長戦に入り、一瞬のすきをついて左上段突きで勝利した。  内田さんは「目標を立て、計画したことをやりきる努力は結果はどうであれ、決して無駄にならないことを子供たちに伝えたい」とし、「この大会で仲間たちに会うのも楽しみ。85歳の最年長選手もおられ、今後もできるかぎり出場したい」と話す。毎週火・金曜日午後7時から城北中学校体育館で練習している。見学は自由で体験もできる。
写真=子供たちに指導する内田さん(左端)


2011年10月11日

あったかい給食、おいしい!
倉梯幼稚園
自園の調理室で手づくり
味覚広がり笑顔、苦手な野菜も食べる
 七条中町の倉梯幼稚園(森田和子園長、園児201人)が、園内で調理師が作った給食を提供している。市内の幼稚園では初の取り組み。これまでは外部の業者から購入していたが、隣接するさくら保育園の調理室を拡充し、両園で共用して作る。子供たちは温かいごはんとおかずに笑顔で頬張り、苦手な野菜も食べられるようになった。10月14日は保護者対象の給食試食会が開かれる。  幼稚園での昼食はお弁当の持参の日と園側で用意する給食の日がある。従来の給食は週2、3回で、パンと業者から購入したおかずがあり、そのメニューは届くまで分からなかった。開園以来隣接する両園だが、保育園の園児だけが自園で作る温かい給食を食べていた。  幼稚園の子供たちにも同じように温かい食事を食べてほしいと考え、また保護者からもそうした要望があったため、調理室の改築に合わせ、部屋を拡充し最新の厨房機器を導入したことで、80食分から一気に400食分作れるようにした。  6月からスタートした給食は毎週月・木・金曜日で、調理師4人が担当。地元の食材を使ってごはん、おかず2品、味噌汁、果物などのメニューで構成し、食費は月額3,300円とこれまでと変わらない。預かり保育や夏休みの長時間保育でも提供している。  献立は市立保育園のものを参考に職員や調理師が検討し、栄養のバランスに配慮しつつ、うどんや、スパゲティー、ラーメンなど目先を変えたもの、家ではあまり食べないひじき、酢のもの、筑前煮なども出す。アレルギーに対応した個別のメニューも準備している。9月からは29日を、舞鶴が元祖とされる肉じゃがの日にした。  自前の給食が始まってから子供たちに変化が見えるようになった。好き嫌いのある子が、友達が食べているのを見て食べられるようになり、初めての食べ物に味覚を広げている。  給食参観をした保護者からは「家ではなかなか食べないのに、おかわりしているのを見てびっくりした」「給食の日が楽しみで親子でメニューを見るようになった」と感想が寄せられる。  森田園長は「子供たちが笑顔で食べているのを見るのが何よりもうれしい。給食を通して食への関心を高める食育にもつながります」と話している。
写真左=給食の肉じゃがを食べる園児たち
写真右=給食の準備をする調理師たち



コスモス満開 新名所に
NPO法人花の懸け橋 大野辺緑地に5万本
10月16日 歌や生演奏、野菜市などで花まつり
 NPO法人花の懸け橋(上山友康代表)が、下福井の大野辺緑地に種を蒔いたコスモス約5万本が花を咲かせ、いま見ごろを迎えている。舞鶴の新しい名所に、多くの人が散歩に訪れカメラに収めている。今月末までブルーシートなどの無料貸し出しもしてゆっくりと花を楽しんでもらう。10月16日は歌声花まつりを開く。  道路沿いの同緑地の幅約3メートル、長さ250メートルに渡って9月中旬ごろから咲き始め、デイサービスの利用者たちが訪れたり、ヨガ教室を開く人もいた。また、樹木の根元の20カ所に、職場グループなどの市民らが、四季などをテーマにナデシコの花などを植え、アート花壇を作った。  10月16日は、コーラスサークル「そよ風」や中筋サウンドハーモニーが出演し歌や生演奏を奏で、野菜市なども並ぶ。午前10時〜同11時50分。入場無料。  今月末まで毎日午後1時〜同4時、スタッフがシートの貸し出し、お茶の無料サービスなどを行っている。雨の場合は中止。  上山さんは「予想以上にきれいに咲きました。俳句の吟行や野外教室の会場などにも活用して」と話す。
【問い合わせ】電話77・5887、上山さん。
写真=花を咲かせたコスモス畑


2011年10月7日

浮島丸事件 下北からの報告
E下北の地域文化研究所

本州最北端で文化育む
文化誌創刊、幅広い特集テーマ
生徒との約束果たす
教員時代の地域調査が原点
 浮島丸事件を伝えるのに、中心となる役割を果たしているのは浮島丸下北の会だが、もう一つ欠かせない存在がある。下北の地域文化研究所だ。下北半島における戦争、自然、教育、原子力、産業など幅広いテーマを扱い、いまでは本州最北端で文化の一翼を担っている。  所長を務めるのが下北の会前代表の斎藤作治さん(81)=むつ市。強制労働の証言集を作るため、仲間たちと1991年に研究所を立ち上げ、94年文化誌「はまなす」を創刊した。先月発行した最新号の第26号(A5判、124ページ、定価1,050円)は、舞鶴も舞台となった映画「飢餓海峡」の下北ロケに対する住民たちの思い出が掲載され、映画がいまも地域の宝である熱気が伝わる。  明日への希望を生み出すことを編集方針に、特集テーマを決め市民たちが執筆する。地域の歴史研究家の鳴海健太郎さん、元県職員、旧満州の引揚者、元国鉄助役ら八人と多彩な編集スタッフが揃う。下北の文化を育むことで、戦争と浮島丸、地域の歴史への関心を高める役割を果たす。  この活動の原点は斎藤さんの教員時代の実践にあった。政治・経済を教えていた田名部高校(むつ市)在職の80年、下北の2つの町村で一粒の米も実らない冷害に直面し、被害に気づかない生徒たちに公開授業を行ったのが転機だった。  退職までの10年間、赤字で廃線予定の国鉄大畑線を生徒たちと歩きながら考えたのを皮切りに、ダムに沈む開拓地・野平の調査、岩手県沢内村での2年がかりの医療・福祉調査など、生徒たちとともに地域から学ぶ現場主義を貫いた。  定年を迎え最後の卒業生を前に、次のように語りかけた。「下北を調べ、教え、発表して文化の面から下北を守っていく」。その約束を研究所と文化誌発行で果たしたのだ。そんな姿がいまも現役教師たちに影響を与えている。  研究所にとってサロン的な場が、むつ市の喫茶店「モナ」。斎藤さんと鳴海さんがほぼ1日おきに様々な話題を語り合う内に、元銀行支店長の同店マスター、牧場経営者、元自衛官、原発賛成者らが会話に加わり、異なる意見に静かに耳を傾ける中から、特集のヒントが生まれる。  発行後、いつも大仕事が待つ。同誌をかばんに詰め込み、斎藤さんらが下北の小・中・高の46校全てを3日間かけて回る。校長に売り込み地域を学ぶための材料にしてもらうためだが、いまの教育現場を知り郷土の歴史を掘り起こす貴重な場にもなる。  特集が好評で増刷することもあるが運営的には厳しく、1年に二度の発行をいまは一度にし500部を作る。弱音を吐きそうになるが、読者からの励みを支えにし、印刷所の社長も「下北の文化運動を絶やしたくない」と協力を惜しまない。  「いつでも今が人生の始まり。年齢を考えたことはない」という斎藤さん。「美しい自然の下北を守りたい。環境を破壊することは人間を破壊することになる。発行を継続するのは大変な仕事だが、地域に埋もれているすごい人や問題にめぐり合った時には、夜も眠れないほど興奮する」と行動の原動力を話す。  大きな声と快活な笑い声、そして周囲を引きつけ胸を熱くさせる魅力。8月末、下北から戻った記者とも頻繁にメールで会話する。そこには「大好きな『おひさま』を見ないでこのメールを綴っていますが、こんな時が私を少年に戻してくれるのです。サンキュー。ハハハ」と書かれていた。パソコンの向こうに輝く瞳が見えるようだ。
写真左=舞Iの一行を迎え、笑顔を見せる斎藤さん(青森県大間町で)
写真右=研究所が発行した「はまなす」と「アイゴーの海」



舞鶴リトルシニア
激戦勝ち抜き京都ブロック代表に
10月9日から関西連盟秋季大会に出場
 中学生の硬式野球チーム、舞鶴リトルシニアは、10月9日から大阪・万博球場などで開催される第41回関西連盟秋季大会に出場する。京都ブロック予選の激戦を勝ち抜き、同ブロック第3代表として、5年ぶり3回目の出場。  10チームで代表を争った京都ブロック予選で、舞鶴はトーナメント戦、敗者復活戦、さらに代表決定リーグ戦と、いずれも僅差の戦いを繰り広げた。なかでも代表決定リーグ戦では、3チームが1勝1敗で並び、総失点の差で、第1代表の京都木津川、第2代表の京都北に次いで第3代表となった。  舞鶴は、エースの福本海斗投手(城北中2年)と控えの井村敏樹投手(城南中2年)の両左腕を中心に、粘り強く守り抜く試合運びで勝ち上がった。水江崇太遊撃手(青葉中2年)、片山智貴中堅手(同)、山内海篤捕手(同)が、ミスからの失点を防いだ。  攻撃では、長打こそ少なかったが、福本投手、山内捕手、東山竜成三塁手(城北中2年)の中軸が、チャンスを得点に結びつけた。特に代表決定リーグ戦の京都北との試合では、延長9回裏に1点を奪って決着をつけた。  主将の上枝慎吾二塁手(青葉中2年)は「関西大会では、常に声を出す元気な野球で、一つでも多く勝ちたい」と話す。  佐竹隆宏監督は「ブロック予選では、打撃は奮わなかったが、走者を出しても失点を防いだことが大きかった。チーム一丸となって勝ち進みたい」と話している。
写真=舞Iリトルシニアのメンバー


2011年10月4日

オール舞鶴産で日本酒を
池田酒造 加佐の農業者、泉源寺のNPOと連携
酒米を栽培・供給 12月と2月の販売目指す
 市内で唯一の酒蔵、中山の「池田酒造」(池田ア子社長)が、加佐地区の農業者の布施直樹さん(38)=西方寺平=と泉源寺のNPO法人京極マリア祈りの里(増田憲嶺代表)が作る酒米を使った日本酒に今シーズンから取り組む。地域と連携することで念願だった米、人、水と全て舞鶴産の酒造りを実現させる。酒米を供給する側も、新規就農者の仕事づくり、遊休地の活用などを図りたいとする。  同社は約5年前に自家醸造を復活させ、2008年から本格的に販売を開始。専務の池田恭司さん(42)は次に地元産酒米で酒造りをしたいと考えていたところ、布施さんも農産物を加工品にして安定した収益を得ようと、地元酒蔵との連携を望んでいた。府の「きょうと農商工連携応援ファンド」にも選ばれ、事業費の3分の2の補助を受ける。  「日本晴」を西方寺と大川の計4反(40アール)で栽培し、収穫した酒米は同社が買い取り、1升瓶換算で500本のにごり酒に仕込み、12月中旬の販売を目指したいという。布施さんは「今後は規模を広げ新規就農のきっかけや農業体験の機会につなげ、副産物の酒粕で加工品づくりもできれば」と話す。  一方、戦国武将の浅井長政の姉で、キリシタンの京極マリアが晩年を過ごした泉源寺の住民たちが、マリアの信仰を貫いた生き方を伝え、地域づくりに役立てようと、同NPO法人を設立。遊休地の活用と特産品の開発にと、同社に酒米を提供する。  酒米は「祝」を選び、泉源寺の2反(20アール)で、同法人理事が五月に田植えをした。同社が純米吟醸酒に仕込み来年2月ごろに販売する。ラベルのデザインやネーミングは同法人が考える。増田代表は「日本酒を通してマリアと泉源寺をPRしたい」と話す。  池田さんは「地元の酒蔵を活用しようとの思いを、持ってくださる方がたくさんおられうれしい。その気持ちに応えていきたい」と仕込みに備えている。
写真左=西方寺の酒米の田。池田さんと布施さん(右)
写真右=泉源寺で京極マリア祈りの里が育てる酒米



吉原小の松下君 決勝で力出し切る
自己ベストで全国2位
日清小学生陸上大会 走幅跳びで
 吉原小学校6年生の松下修也君(12)=西吉原=が、このほど横浜市で開かれた日清食品カップ第27回全国小学生陸上競技交流大会の男子走幅跳びで、自己ベストの5メートル23を跳び2位に入った。2009年にもこの大会で当時の吉原小6年生が4位に入賞したが、松下君は先輩の記録と順位を超えた。  市内の陸上クラブ「舞鶴ジュニア」に所属する松下君は、5年生から走幅跳びをしている。今年7月の府小学生クラブ対抗大会では5メートル13で優勝した。  2年前の日清カップ全国大会で5メートル12で4位に入賞した同小卒業生で、城北中学校2年の真柴大輝君を目標にし、同京都予選で1位となった。全国大会前の練習では、真柴君から苦手な着地のアドバイスを受けた。  全国大会予選で4メートル94を跳び、8人による決勝に進出。同小の長澤龍志教諭の「踏み切りをもっと強く」の指導でタイミングよく跳躍し、決勝の大舞台で自己ベストを更新する記録を出した。松下君は「優勝を狙ったけれど、自己ベストでの2位はうれしい」と話す。  岩ア昌司校長は「小さな吉原小学校からこの3年間に2人の上位入賞者が生まれ、下級生たちにも励みになっています」と喜んでいる。
写真=2位のトロフィーを手にした松下君


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