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2012年2月28日

東北・被災地ルポ 3.11を前に
―第4回― 岩手県釜石市@

がれきの山 冷たい雪が降る
置き去りにされる被災者

 次に岩手県釜石市を訪れた。釜石といえば新日鉄で知られるように鉄の町。そしてラグビー日本一のイメージから大きな町と思っていたが、現在の人口は約3万7千人。到着したJR釜石駅は小さな駅だが、その正面には巨大な新日鉄の工場がそびえる。  難民を助ける会の案内で、車で浜街道と呼ばれる国道を南下し、いまも残る被害の様子を見て回った。しばらくすると運転免許センター駐車場に、まだ置かれたままの被災車両が目に入る。  唐丹(とうに)地区のかまいしワークステーションへ。35人の障害者が利用し、プレハブの仮設作業所で車の部品づくりの下請け作業をしていた。震災前の釜石北部の施設は津波によって流されたが、全員避難して命をとりとめた。防災教育に力を入れている市内の小学校の児童を持つ女性が職員におり、保護者たちも受けた防災訓練が役立ったからという。  釜石で最も大きな津波被害を受けた鵜住居(うのすまい)地区に向かった。すり鉢の底のような地形で、地域の約7割の建物、市全体の4割にあたる約1800戸が被災した。雪が降る中、基礎だけ残す家、ほぼ全壊の家、修理中の音がする家。遠くには大屋根が壊れた寺がある。戸がなくなり吹きさらしの縁側には、白い箱がいくつも見える。運運転手が骨箱と説明してくれた。言葉が出ない。  海岸近くに全壊した釜石東中学校と鵜住居小学校があった。中学生が小学生の手を引き、全員が無事避難したことで何度も報道されている学校だ。黒ずんだ2つの学校にはタイヤやがれきなどが、校舎と同じ高さぐらいにグラウンドに置かれていた。  舞鶴で被災地の支援を続けるよしだ敦子さん(59)=浜=は、がれきに雪が降り積もる光景に涙が溢れてきた。そこにあるのは「哀しい。冷たい。何でなん」という気持ち。「これを毎日見ている住民たちは辛いだろうな」  大量のがれきは被災地で処理しきれず、401万トンを広域で協力を求めるも、受け入れる自治体は少ないと何度も報じられているが、1年近く経っても山積みのがれきを実際に目にして、被災者は「置き去りにされている」と感じているのではないだろうか。色彩を失ったモノトーンの風景が目に焼きついた。 (つづく)

写真=全壊した釜石東中学校のグラウンドに積み上げられたがれきは雪に覆われていた(1月31日、釜石市)



みずなぎ学園ふれあい展
手仕事の魅力ぎっしり
3月1日〜4日 鹿原学園で
手織りの製品、ワークショップも

 みずなぎ学園を利用する障害者たちが、幅広いアート活動や自主製品づくりに取り組んでいる。昨年九月からは新たに手織りの仕事に挑み、マフラーなどの販売も始めた。職員も企画・開発力を高め、障害者たちの能力を引き出している。3月1日〜4日、鹿原のみずなぎ鹿原学園を会場に開く第18回ふれあい展で、多彩な手仕事の魅力を紹介する。  鹿原学園、高野学園、丸田学園、障害者支援施設みずなぎ学園を利用する約230人が各施設で自主製品づくりをし、販売の収益を賃金にあてている。鹿原と丸田では喫茶室とパン工房も併設する。  各施設で陶芸や刺繍、園芸、絵画などを製作するが、昨年から鹿原で5台の織り機を使った手織りを始めた。小倉でさをり織りをする市民から指導を受け、5、6人が独創的な色合わせの布を織り、マフラーやコースターなどに仕上げ、今年から洋服づくりにもチャレンジする。  ふれあい展ではアクセサリー、帽子、プリントTシャツ、手工芸品などが並び、子供たちが喜びそうなかわいらしい製品が多数揃う。展示の見せ方や商品紹介のポップカードも、印象的なものにするなど福祉施設のイメージを超えた工夫をこらす。  手織りを担当する木村恵さん(35)は「慣れるとこんなに早く織れるのかと自分でも驚きました。マフラーができたときはうれしかったです」と話している。  市民との交流の機会をつくろうと、手織りとちぎり絵のワークショップ(無料)を開催する。手織りコーナーでは参加者と障害者で1本の布づくりをし、会場に飾る。また、利用者たちの日常を知ってもらうため作業の見学や、自閉症の人たちが落ち着ける環境を再現した部屋も設ける。  4日間とも午前10時〜午後4時。入場無料。
【問い合わせ】電話63・5030、鹿原学園

写真=手織りの仕事をする利用者たち


2012年2月24日









東北・被災地ルポ 3.11を前に
―第3回― 宮城県南三陸町B

町で唯一の居場所 なくさない
のぞみ福祉作業所 障害者、笑顔戻る
仕事の先行き不透明 住民の流出懸念

 知的障害者たちが利用している同町ののぞみ福祉作業所。津波による全壊から2カ月後の昨年5月、利用者家族の自宅脇に、リースのプレハブを設置して早くも再開した。しかし、避難所生活で体調を崩す人、送迎用の車がなく通えない人もいた。もちろん町が壊滅的な被害を受けたため仕事はない。始めたのは目の前の畑を耕しての野菜づくり。次第に様々な支援も届くようになった。  NPO法人難民を助ける会から車両などの支援を受けたほか、プレハブ1棟の寄贈を受け昨年11月、志津川地区の高台に仮設の新作業所を開設。私たちが訪れた時には、同会から贈られたもう1棟のプレハブの設置作業中だった。3月中旬の完成を目指している。  いま14人の利用者たちは自分たちの居場所ができ、仲間たちに会うことができるため、楽しみに通っているという。「正月は5日間の休みでしたが、みんな休みはなくてもいい、毎日通いたいと言われました」と笑い話を語る所長の畠山光浩さん。  だが、仕事が回復したわけではない。震災前は水産物や菓子のシール貼りなどの仕事を請け負い、毎月4,000円の工賃を支払っていた。いまは野菜栽培と支援を受けて開始した和紙づくりを主にし、年末には年賀状製作の注文も受けた。  畠山さんは「3月までは2,000円の工賃を出せるメドは立っていますが、それ以後は不安定。2棟の建物が完成すれば機能的には復旧できたと言えます。水産関係の仕事が戻ってくれれば」と話す。  震災前から人口減と高齢化が進んでいた町だが、3世代同居の家庭が多く、障害を持つ子供を祖父母がサポートしていた。その家族のつながりが仮設住宅の暮らしで弱まった。「祖父母と離れて暮らす母親たちはまいってきています。仮設の生活は半年が過ぎただけ。これから精神的なひずみが生まれることが心配」と指摘する。  さらに、強かった地域のコミュニティも失われてしまった。仮設でばらばらになった上に、平地の少ない同町は仮設を建てることができず、隣の登米市などに分散して町民たちが暮らしているためだ。人口流出を示す数字が総務省から発表された。2011年の人口移動報告によると、転出超過(転出者から転入者を引いた数)は南三陸町が1628人と全国9位の高さだった。  町が昨年12月に4315世帯を対象に、「今後の移転先と住まいに関する意向調査」を実施し、中間集計結果(回収率約67%)を1月にまとめた。「被災したが町外に移転予定」が約18%、「町が整備する高台へは移転しない」または「わからない」と回答した人は約25%を占める。ますます地域崩壊の危機感が募る。  中・長期的にどんな支援が必要かと畠山さんに問いかけた。「本格的な町の復旧は先が見えない状況なので、いまの段階でこれが必要とは言えません。状況の変化を見て対応するしかない」と答える。  福祉作業所の運営は厳しい。加えて職員も自宅が流出するなど被災当事者だ。それでも揺るがせに出来ないことがある。「障害者を受け入れる法人の作業所は、町の中でのぞみ1つだけです。踏ん張って福祉サービスを提供していきたい」。畠山さんの穏やかな口調の中に強い決意が込められていた。 (つづく)

写真左=障害者と町の現状を語る畠山所長(1月30日、南三陸町)
写真右=難民を助ける会が寄贈したプレハブの仮設作業所(1月30日、南三陸町)



ピンク色のどぶろく完成
製造免許取得の居酒屋経営 橋本さん
ひな祭に合わせ 女性向けに

 どぶろく特区の第1号の製造免許を取得した農民居酒屋経営の橋本泰弘さん(59)=溝尻町=が、3月3日のひな祭りにちなんだピンク色のどぶろくを完成させた。女性向けにほんのりと甘口に仕上がっている。  舞鶴市がどぶろく特区に認定されたのを受け、橋本さんが免許を取って昨年12月から浜の同店「どぶろくべェー」2階の醸造所で仕込みを開始した。すでに出荷を始めているが、順調に販売を伸ばし早くも人気を集めている。  グンゼ製の紅酵母を使用し、ピンク色を付けている。自分で栽培したコシヒカリの米、米糀、水を材料に仕込み、2週間で完成した。女性を意識しておしゃれなモーゼル型の瓶に詰めた。橋本さんは「30本だけの限定販売ですが売れ行きによっては引き続き仕込みたい」と話す。
 500ミリリットル瓶で1,500円(税込み)。浜の醸造所、倉谷の山下酒店で扱っている。販売は電話予約(電話090・2113・0515、橋本さん)。

写真=ほんのり甘口に仕上がったピンク色のどぶろく


2012年2月21日

つなげるヒントを 八島ダイアローグ始動
まいづるRB
yashima art portで
アート、文化で活躍する講師陣招き 3月までレクチャー
新たな企画へ チャレンジを後押し

 人と人とをつなげ、企画を生み出すヒントを考えてもらおうと、まいづるRBなどが浜八島商店街内のyashima art portで、レクチャー・シリーズ「八島ダイアローグ」をスタートさせた。3月27日までの計5回の講座で、アートや人文科学分野の第一線で活躍する人たちが講義し、参加者たちと交流をする。  RBアート・ディレクターの森真理子さんは、赤煉瓦などを舞台に様々なアートプロジェクトを行う中で、何かを始めたいという人に多く出会い、その後押しをする機会を作ろうと今企画を発案。イベントのノウハウではなく、人と人、場と場をつなげる考え方を一緒に探るとともに、参加者たちの出会いの場にもする。  全5回の講座。1回目は「『間(あいだ)』の力」をテーマに、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授で臨床哲学者の西川勝さんが講師を務め、高専生や福祉関係者ら約20人が参加した。  西川さんは精神科病棟や老人介護施設などで長く看護の仕事をした体験を踏まえ、患者や家族、医師らとの間に入る看護師の行動事例を紹介。また、コミュニケーション能力を高めるには、聞くこと、相手が話し出すのを待つこと、ともに居ること、遇うことなど次々と掘り下げて考える思考法を示した。  2回目の2月27日は美術家の藤浩志さんが「現場のつなぎ手とは?」、3回目の3月6日はアサヒビール芸術文化財団事務局長の加藤種男さんが「地域×アートの過去/現在/未来」、4回目の3月17日はニッセイ基礎研究所主席研究員・芸術文化プロジェクト室長の吉本光宏さんが「アートと○○をつなぐ可能性」、5回目の3月27日は南山大学文学部教授の坂井信三さんが「人と人、モノとモノをつなぐ、ネットワークとは?」をテーマに話す。  時間は午後7時〜同8時半、引き続き交流会。4回目だけ午後1時半から。会場はいずれも同port。定員は20人。料金は1回500円。
 【問い合わせ】電話070・6548・9922、yashima art port

写真=第1回講座で話す講師の西川さんと参加者たち



障害者働く古本屋
大雪で売り上げ激減
ブックハウスほのぼの屋
2月28日まで半額セール

 社会福祉法人まいづる福祉会が運営する行永のブックハウスほのぼの屋が、古本などの商品の半額と三角くじセールを始めた。今冬の大雪で売り上げが激減し、働く障害者たちの給料に大きく響いており、この時期に初めて値下げを行って懸命に来店を呼びかけている。  1998年オープンの同店は古本屋として営業し、障害を持つ8人が本の整理や販売などの仕事に取り組み、収益から賃金を得ている。写真集や美術書、マンガなども揃い、格安で掘り出しものもあることから、福祉と関係のなかった市民も買い物に訪れている。  平均して月に約12万円の売り上げがあるが、この大雪の影響で1日に5人の来店者だけや売り上げが0〜数百円の日もあり、約半分程度に減っている。  2月28日までのセール期間中は単行本、文庫、CD、レコードなどが半額(50円の商品などは除く)になる。買い物額500円に応じて1枚のくじが引け、買い物券があたる。  指導員の伊藤薫平さんは「ネット販売もしていますが、地域の方とふれあえる活動をしようと始めた店なので、店舗販売を大切にしたい」と話す。不要な本の提供も呼びかけている。営業は午前10時〜午後7時。水曜休み。
 【問い合わせ】電話62・1010、同店

写真=2万点のマンガ、文庫などが並ぶほのぼの屋


2012年2月17日









東北・被災地ルポ 3.11を前に
―第2回― 宮城県 南三陸町A

中心市街地 壊滅的な打撃
住宅、漁船、鉄道 ほぼ流失
水産施設 一部再建される

 低地に市街地が集中していた南三陸町は、最大20メートルを超える津波によって中心部が壊滅し、中でも志津川地区は住宅の約八割が流された。人口約1万7千人の内、津波による死者は565人、行方不明者を含めると犠牲者は約1000人を数える。また、世帯数は5362だが、全壊が3161戸と家屋の被害が大きい。  畠山さんの車に同乗して、さきほどまで見下ろしていた沿岸部の志津川地区に入った。かつての国道はかろうじて道路だったことがわかり、その両側には建物の基礎部分だけが残っている町並みが続く。高台には助かった住宅、その下段には被災しスクラップとなった車やがれきの山が築かれ、重機が作業をしていた。  中でもひときわ目を引くのが、むき出しの鉄骨だけとなった防災対策庁舎だ。ここから防災無線で最後まで町民に避難を呼びかけ続けた町職員、遠藤未希さん(当時24歳)を含む職員39人が津波の犠牲となった。  その内の1人で遠藤さんとは高校の同級生だった三浦亜梨沙さん(同)は津波に流され行方不明となっていたが、1月17日に町のがれき置き場で、通行人が遺体の一部を見つけ、DNA鑑定で三浦さんと確認された。三浦さんの家族は10カ月以上も亜梨沙さんを捜し続けていたと報道が伝える。警察庁のまとめでは2月15日現在で、震災による行方不明者は3281人。  庁舎のプレートが残る正面には、犠牲者を弔う塔婆や多くの花が供えられている。津波のすさまじいまでの威力と、一瞬にして多くの命がのみ込まれたことの事実を突きつけられた。一行は胸のつまる思いで言葉もなく静かに手を合わせた。  幹線道路はいたるところで寸断し、JR気仙沼線のレールは流され、気仙沼駅と柳津駅間は運休が続く。「志津川病院の4階まで水がきた」と畠山さんの説明する方角に目をやると、病院建物の一階屋根にまだ船が載っていた。  海岸付近は地震のため約70センチ地盤沈下したため、満潮時には海水で浸水し、車の通行に支障がでているという。あちこちのくぼに溜まった水が、晴天の昼間だというのに凍ったままだ。  南三陸町はホヤやワカメなどの養殖が盛んな水産業の町で、宮城県北部の中核漁港と位置づけられる。志津川湾の漁港周辺を回ると、大型漁船が10隻以上は係留されていたのでびっくりした。畠山さんによると、津波が到達する前に沖に避難して助かった船らしい。一方で小型漁船や資材、加工場はほぼ流失し、港に漁具などとともにがれきとなって横たわっていた。  そんな大きな打撃を受けたが、昨年10月24日には全壊した地方卸売市場に替わる仮設の魚市場が、総事業費約1億8900万円をかけ完成した。再スタートを切ったばかりで、水揚げ高は震災前の40%しか回復していない。  今回参加した陶芸家の高井晴美さん(47)は、漁村の成生で生まれ育っただけに津波の被災に心を痛めてきた。南三陸町のがれきやごみがたくさん残っている様子に驚く一方、「漁船や仮設の漁協事務所などを見て、これからがんばろうという漁師たちの気持ちが伝わってきた」と漁業者の意地に心強さも感じた。 (つづく)

写真左=鉄骨だけとなって残った防災対策庁舎(1月30日、南三陸町)
写真中=津波を逃れた高台の住宅。その下では被災車両と家ががれきとなっていた(1月30日、南三陸町)
写真右=再建された仮設の魚市場(1月30日、南三陸町)



手づくり製品販売会へ準備
舞鶴支援学校
2月23日 西市民プラザで開催

 舞鶴支援学校高等部の生徒たちが、2月23日に円満寺の西市民プラザで開く製品販売会に向け準備を進めている。手作りした陶芸、工芸、木工品などを自分たちで販売する。  製品販売会は、市内の東と西地区で毎年各1回ずつ開いているほか、府立の支援学校合同で、毎年5月に京都市内の百貨店で開いている恒例行事。販売会に向け、生徒たちは年間通じて製品づくりはもちろんのこと、販売会での対面販売の仕方など事前学習、製品の袋詰めや値札付けに取り組んでいる。  販売品目は、皿や花びん、茶碗などの陶芸品、藍染めや柿渋染めののれんやハンカチ、今回初めて販売する干支の字の入ったコースターの工芸品、アクセサリーなどの小物の木工品。このほか、大根やキャベツの農産物。
 販売会は午前10時半〜午後3時半。

写真=陶器製品に値札を付ける生徒


2012年2月14日

東北・被災地ルポ 3.11を前に
―第1回― 宮城県 南三陸町@

町襲った津波 爪跡いまも
がれきの処理進まず
被害の光景眼前に広がる

 東日本大震災で大きな被害を受けた東北の地。震災から11カ月を過ぎたいま、被災地はどうなっているのか、そこに暮らす人たちはどんな思いを持っているのか。現地事務所を置いて支援活動をするNPO法人・難民を助ける会(東京都品川区)の案内で、1月30日〜2月1日、宮城県南三陸町と岩手県釜石市を訪れた舞鶴市民たちに同行した。被災者と支援に取り組む人たちの声を報告する。 (青木信明)
 南三陸町の中心地に通じる国道398号の峠道を抜けると、沿岸部に向けなだらかに傾斜する平野が開けるとともに風景が一変した。がれきの山、スクラップになった車の一群が目に飛び込んでくる。右手に見える合同庁舎の建物にはひと気がない。ガラスが全て割れ落ちた窓からは、身を切るような冷たい風にカーテンが揺れていた。近くには小さなプレハブでコンビニが営業している。  同助ける会が支援するのぞみ福祉作業所の所長、畠山(はたけやま)光浩さん(55)が待ち合わせ場所に来てくれた。津波で被災した志津川地区の旧作業所跡へと向かった。  右にデイサービスセンター、左に特別養護老人ホームとつながる複合施設で、2010年開所と新しい。建物自体は無事なようだが、中に入ると天井から約10メートルの高さまで水が来た痕跡が壁にくっきりとついていた。部屋には書類などがまだ乱雑に残ったままで、畠山さんは来るたびに気づいた日誌などを持ち帰っているという。  室内に書類、屋外にはガラスや事務機器、ベッドなどが多数置かれていた。ボランティアたちが大まかに分類して後片付けをしたそうだ。積み上がったがれきの山だけでなく、いまでは粗大ごみとなった施設の備品類などもまだ二次処理が進んでいない。  作業所は海岸から約1・5キロの距離で少し高台に位置する。津波の高さは当初、6メートルの予報だったためだれもが大丈夫だろうと考えた。実際は作業所より内陸に入った地点で波は16・4メートルの高さにまで達した。作業所で2人、特養で40人近くの利用者が犠牲となった。  津波が押し寄せてきた時の様子を畠山さんは語ってくれた。濁流に家が流されていく様子を目の当たりした。その波が施設を襲ってくる。がれきの間にはさまって流されずに救助された人、網戸と網戸の間にひっかかったリュックサックにつかまって助かった人。「なぜ助かったのかわかりません。津波が来るまでに44、5分はあった。もっと早く避難していれば」と悔やむ。  施設の前には景色を遮る並木があったが、波に倒されまばらにしか残っていない。その間から町を見渡すことができた。住宅や事務所が流され更地になり、残ったコンクリート製のビルは窓ガラスもなく廃墟になっていた。  その光景には戦争を知らない私にも、空襲を受け焼け野原になった戦後の町を想像させるのに十分な津波の爪跡がいまも残っている。全てをのみ込んだ津波がやってきた海が、人々の暮らした町の向こうに見えた。 (つづく)

写真左=津波で壊滅状態となった志津川地区の町が高台から見渡せた(1月30日、南三陸町)
写真右=案内された福祉施設前に処理されずに置かれたままのごみ(1月30日、南三陸町)



釜石の小中学校防災教育を指導
片田さん 「想定にとらわれるな」
津波生きのびた子らの体験語る

 東日本大震災の大津波によって、1000人以上の犠牲者を出した岩手県釜石市で、ほぼ全ての小中学生が助か ったが、その防災教育を指導した群馬大学大学院の片田敏孝教授の講演会「想定外を生き抜く力」が2月8日夜、浜の市商工観光センターで開かれた。想定にとらわれず、自分の命は自分たちで守る主体性を育てる大切さを語った。  釜石市は津波によって沿岸部が壊滅的な被害を受けた。そんな中、小学校9校、中学校5校の全児童生徒2926人の内、学校にいなかった5人を除く全員が避難して無事だった。  8年前から釜石市の学校で防災教育に関わる片田さんは、今回の震災で想定にとらわれすぎた防災の弱点を指摘。宮古市で防潮堤があるので逃げずに亡くなった人、釜石市では津波ハザードマップの浸水想定区域外の安全地帯とされた住民たちが多く亡くなっている事例を示した。  現在、想定の見直しや自然を制圧する発想で議論されているのは間違いとし、「自然の営みに畏敬の念を持ち、行政に委ねることなく、自らの命を守ることに主体的たれ」を信念に、想定にとらわれず自分が率先して避難するなどの避難三原則を説明した。  津波で全壊した釜石東中学校の生徒たちの震災時の様子も紹介。生徒たちが大声で危険を知らせて自ら逃げたことで、近くの鵜住居(うのすまい)小の児童や保育園の園児たちもその姿を見て逃げ出した。中学生たちは車いすの高齢者の避難も手伝った。  片田さんは「子供たちは津波の体験を伝えようとしており、その姿に大人たちが刺激を受け復旧の議論が盛んだ。防災を通じて子供たちが育っている。釜石は大丈夫」と力強く述べた。  講演会は舞鶴みなとライオンズクラブが主催した。会場の席を埋め尽くす約330人が来場し、最後まで片田さんの説得力ある話に聴き入った。また、片田さんが釜石の子供たちの教育支援にと呼びかけた募金には、16万5千円が会場から寄せられた。

写真=「自らの命を守るのは自分」と話す片田さん


2012年2月10日

浮島丸事件 芝居に
日韓の重い「荷」問いかける
韓国の劇作家が脚本
劇団・東京演劇アンサンブル 2月24日から練馬区で上演

 1945年8月24日、舞鶴湾内で海軍特設輸送艦が爆沈し、多くの朝鮮人労働者が犠牲となった浮島丸事件を主題にした芝居「荷(チム)」が、プロ劇団の東京演劇アンサンブル(東京都練馬区)によって取り組まれる。韓国の劇作家による脚本で、昨年12月に来鶴して殉難の碑を見た劇団員たちが、日本と韓国に残る重い荷物を問いかける。2月24日から練馬区の劇場で上演が始まる。  54年創設の同劇団は、文芸作品や戦争をモチーフにした作品などを、国内外で手がけている。韓国との演劇交流の中で作品「荷」を知った。女性劇作家の鄭福根(チョン・ボックン)さんが書き上げ、08年に韓国で初演され、今回の日本公演のため新たに加筆した。  戦争中、強制労働をさせられていた朝鮮人たちを乗せた船「浮島丸」が、戦争が終わって朝鮮半島に向け出港した青森県大湊。この地に住む日本人男性が事件の犠牲となった朝鮮人女性の小さな荷物を預かっていた。その男性の娘が女性の関係者を探し出し、韓国にいる男に送る。  しかし、男は自分が受け取るべき荷物ではないと日本へと送り返した。戦争を知らない世代の日韓の2人の間で荷物が行き交ううちに、乗船を止められなかった日本人男性の罪悪感、強制連行された女性を突き放した韓国人側の罪の意識などがあぶりだされる。  劇団員ら15人は、下佐波賀の殉難の碑前で殉難者を追悼する会の余江勝彦会長から事件の概要、救助の様子、追悼活動の説明を受けた。韓国から招かれた俳優2人と舞台を作り上げ、社会派演劇の旗手、坂手洋二さんが演出する。  制作担当の太田昭さん(39)は「韓国では事件が芝居になる一方、日本ではほとんど知られていないことに、荷物の重さの違いを感じます。日韓の間で押し付け合う荷を介して、双方で対話を重ねて関係を作っていくことが大切です」と語る。余江会長は「事件がいまだ未解決で終わっていないことによる意識の違いが込められているように思う。上演によって事件を知り考えてもらう機会になれば」と話している。  公演はブレヒトの芝居小屋で3月4日まで。午後2時と同7時の2回。前売り3,800円。
【問い合わせ】電話03・3920・5232、同アンサンブル

写真=殉難の碑を訪れ、余江さん(左端)から話を聞く劇団員たち(昨年12月)



千羽鶴とアルミ缶回収の義援金
倉梯小児童会
震災支援活動で市社協へ

 倉梯小学校の児童会長、土田千晴さん(12)ら本部役員の児童5人が2月8日、余部下の市社会福祉協議会を訪れ、高木修事務局長に、東日本大震災の復興にと、アルミ缶回収で得た義援金など4万1,700円とメッセージを書いた千羽鶴を届けた。  同校では、昨年9月に東日本大震災支援活動についての学習会を開催。全校児童が、被災地の災害ボランティアセンターに派遣された市社会福祉協議会の山内亨さんから被災地の様子や支援活動について話を聞いた。  児童会では、学習会を受けて、自分たちで被災地に元気を届けようと、「アルミ缶回収」を提案。10月18日から1月10日まで、毎週火・木曜日に児童たちが自宅からアルミ缶を持ち寄った。  義援金は、これを業者に売却した1万1,700円と、同学PTAが昨年5月に行った資源回収の収益金の一部3万円。また、被災者へ励ましのメッセージを書いた千羽鶴を児童1人が2羽ずつ折り、千羽鶴を作った。  土田さんは「被災地の1日も早い復興を願っています」と話していた。  市社会福祉協議会は、義援金は共同募金会を通じて被災者に届け、千羽鶴は宮城県七ケ浜町社会福祉協議会に送る。

写真=義援金と千羽鶴を届けた倉梯小児童会の本部役員


2012年2月7日

多様な植生を徹底調査
元・自然文化園勤務 足立さん
891種掲載の報告書作る

 舞鶴自然文化園で長年ツバキの研究に努めてきた足立尚義(なおよし)さん(78)=田中町=が、1984年から1991年にかけて市内の40カ所で草木を調査し、報告集「舞鶴の植物」(A4版、113ページ)をこのほど作成した。132科891種が収録され、舞鶴の多様な植生を知る貴重な資料になっている。  同文化園前身である西武舞鶴農場の1965年の開設時から在籍、農場長も務め1500種3万本のツバキ園の開園に尽くし、新品種の開発にも取り組んだ。退職後、同文化園で栽培するツバキ属の原種70種を掲載した冊子などを発刊した  現職だった7年間にわたって、京都大や府立大などの協力で舞鶴の植物調査をした。空山や多祢寺、赤岩山、自宅近くの鈴鹿神社など自然が残っている地点を中心に、アトランダムに20メートル四方を選んで囲み、そこに育つ全植物を調べた。不明な植物は標本として持ち帰り、大学の専門家に鑑定を依頼した。その後、まとめる時間を作ることができなかった。  報告集には舞鶴の植生の移り変わり、平均気温の変化、植物目録、冠島の海浜植物のリスト、山野草などの写真を掲載。関西電力の火力発電所建設などに伴う植生調査報告書なども参考にしている。三浜峠の多祢山では、海岸から標高350メートルまでは常緑広葉樹林が占め、それ以上の山腹には落葉広葉樹林に変わり、樹種の交代が見られ珍しいと指摘する調査結果も紹介した。  足立さんは「調査から20年余りが経過しているので、いま調べたらどんな植物が増減しているのかその変化もわかるだろう。舞鶴には多様な自然が残っており、大事に守っていってほしい。今後も調査を続ける人によって、新しい植物が書き加えられていけば」と話している。  200部作り、市内の全ての小中学校に贈る。希望者には無料で配布する。
【問い合わせ】電話64・5941、足立さん

写真=報告集を手にする足立さん











舞鶴全域 記録的な豪雪
2月2日、観測史上最高の87センチ

 強い寒気が日本列島を覆った影響で、2月2日、舞鶴地方では長時間にわたって大雪に見舞われた。舞鶴海洋気象台によると、この日の積雪は1947年の観測開始以来、最高となる87センチを記録した。  市内の2校の小中学校が休校し、残る小中学校も昼から集団下校した。JRや路線バスでも運休するなどダイヤが乱れ、国道27号の上安久―北田辺間で通行規制し除雪をするなどした。各地の道路で渋滞が起き、喫茶店など店舗でも臨時休業した。白杉など一部地域で停電も発生した。  2月3日は晴れの天気となったものの、最低気温は氷点下4.4度となり、凍てついた道路を慎重に走る車やスリップするトラックなどが続出し、国道などで渋滞が続いた。  市中心部や住宅街では雪かきをしたゆきが道路わきに積み上げられ、車や人の通行に支障が出たり、終日雪かきに終われる人たちの姿が見られた。全ての小中学校、支援学校も通学の安全が確保できないため休校とした。

写真左=国道の歩道で雪かきをする隊員たち(2日、北吸)
写真中=雪かきに追われる保育園の職員たち(3日、浜)
写真右=雪が積み上がった市街地の道路(3日、浜)


雪捨て場 12年ぶりに開設
東・浜五条海岸 西・喜多貯木場

 市は、連日降り積もったり雪かきをした雪で市民生活に影響が出ているのを受け、2月4日から12年ぶりに雪捨て場を市内2カ所に開設した。  開設場所は東地区が浜の五条海岸、西地区が喜多の喜多貯木場。搬入は4トン車以下の車両で、直接各自で持ち込みをする。時間は午前9時〜午後4時。2月13日まで開設の予定だが状況によっては変更する。  【問い合わせ】電話66・1039、市建設部(土・日曜も受け付けている)。

写真=市民たちが次々と雪を運び込んだ


市、除雪作業チームを派遣
1人暮らし高齢者や障害者世帯へ

 市は、1人暮らしの高齢者と障害者世帯の生活支援の緊急措置として、市職員による除雪作業チームの派遣を2月4日から始めた。  作業範囲は自宅家の玄関から最寄の公道までの通路。屋根の雪下ろしは危険が高いため行わない。希望者は自分の住む地域の自治会長へ除雪を依頼し、連絡を受けた市が積雪の程度や生活の支障の状況などを判断して派遣をする。  作業は4人を1チームとして2月12日まで行う。平日、土・日曜の午前9時〜午後5時。
【問い合わせ】電話66・1042、市企画政策課




2012年2月3日

共同製作の休憩所とベンチ完成
舞鶴支援学校高等部木工班と宮津高建築科の生徒が力合わせ
両校交流のシンボル
雪解けを待ちビオトープに設置

 舞鶴支援学校高等部の職業自立コース木工班の生徒7人と宮津高校建築科の3年生が、共同で製作に取り組んだ休憩所上屋やベンチが出来上がり、2月1日、堀の同支援学校で完成式があった。両校の交流のシンボルとして、雪解けを待って同支援学校のビオトープに設置される。  共同製作は、毎年課題研究として製作した木工品を幼稚園などに寄贈している宮津高から同支援学校に提案された。昨年6月に宮津高の生徒が同支援学校を訪れ、小、中学部の児童・生徒が自然観察するビオトープを見学、休憩所を作ることを決め、木工班の生徒と初顔合わせをして交流した。  その後、宮津高の生徒たちが、設計図を書いてミニチュアの試作品を作り、その組み立て方を説明したビデオを同支援学校に送った。それを参考に木工班の生徒たちが試作品を作り、その後、1月14、17、31日に、宮津高の生徒たちが加工した部材を持ち込み、木工班の生徒と共同で組み立て作業を行った。  完成した休憩所上屋は、藤棚風で幅長さ3メートル、高さ2.5メートルの2棟、ベンチは一辺90センチの三角形と四角形で、合わせて10脚。休憩所の屋根は太陽光が木漏れ日のように射し込むよう格子になっている。  完成式には、同支援学校高等部の職業自立コースの生徒や小、中学部の児童・生徒代表、宮津高建築科の3年生23人らが出席。休憩所上屋の最終仕上げを行ってお披露目され、完成を祝った。

写真=共同で休憩所上屋を組み立てる両校の生徒たち



企画写真展「まいづる田辺城下町の『今』」
写真倶楽部「恋写」 西地区の神社や仏閣など
作品毎月入れ替え 京銀西舞鶴支店で9月まで

 舞鶴市と宮津市の60、70代の男性8人でつくる写真倶楽部「恋写(れんしゃ)」(吉野耕司代表)の企画展「まいづる田辺城下町の『今』」が、2月1日から魚屋の京都銀行西舞鶴支店ロビーで開かれている=写真。西舞鶴地区の神社や仏閣、名所・旧跡を撮影した作品を毎月入れ替え、9月まで開かれる。  同倶楽部は、平成21年に結成。翌22年に同支店で、昭和30年代と現在の舞鶴の風景を白黒写真とカラー写真を並べて対比する「舞鶴今昔展」を開いた。地方文化の発信を狙いとした企画展で、今回は城下町の西舞鶴にスポットを当てた第2弾。  神社八社、仏閣八寺、名所・旧跡16カ所を、会員がそれぞれ担当を決めて撮影、3枚の組写真として展示している。2月の展示作品は、「恵比寿神社」「妙法寺」「高野川倉庫群」「田辺大橋」。恵比寿神社は、昨年11月の祭りに撮影した福娘や参拝の様子、妙法寺は昨年12月の冬至に行われた水行など、まさに“今”が撮影された作品が並んでいる。また、各作品には、歴史的背景など解説文も添えられている。4人が交代で毎月作品を入れ替える。  吉野代表は「ふるさと舞鶴の歴史を写真で見て再確認してほしい」と話している。




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