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2012年3月30日

感謝の気持ち 記念の缶コーヒー
キリンビバレッジ舞鶴工場
操業20周年
主力3種に、
ゆうさいくんらデザイン

 缶コーヒー「キリンFIRE」を全国に出荷している倉谷のキリンビバレッジ舞鶴工場(竹重和行工場長)が、今年で操業20周年を迎えた。20周年にあたって非売品の記念缶コーヒー3種類を製造、ゆうさいくんや赤れんが倉庫群などキャラクターと建築物をデザインした。4月14日には20年前に埋めたタイムカプセルを開封する。  舞鶴工場は1992年3月に操業を開始。3交代24時間稼動で、「午後の紅茶」など約20種の缶飲料を製造し、中でも主力の「キリンFIRE」は全国出荷量の約9割を生産する。2011年は年間1360万ケースを生産、今年は1450万ケースを目指す。  従業員数は61人。その多くは地元採用で雇用創出の役割を果たす。また、撤退した資生堂と共同して工場を開放してのイベントを長年開いてきたほか、小中学生の職場体験の受け入れ、ちゃった祭りで民踊流しへの参加、花火への協賛など地元に密着した活動を積極的に取り組んでいる。  記念の缶コーヒーは「キリンFIRE」(190グラム)をベースに、ゆうさいくんと田辺城、舞鶴かにのチョキまると赤れんが倉庫群、海上自衛隊舞鶴地方隊のマイチ君とクレインブリッジをデザインした。3本を1セットに1500セット限定で作り、舞鶴商工会議所会員など関係者に20年のお礼に配布している。  竹重工場長(48)は「20周年にタイムカプセルを開封するのに合わせ、舞鶴の土地と町、人たちに感謝の気持ちを込め記念缶を作りました。今後はニーズに対応した様々な商品を生産性を高めて作る工場に生まれ変わっていきたい」と話す。タイムカプセルは工場敷地内に埋められ、20周年の2012年に開封すると刻まれた石碑が置かれている。

写真左=舞鶴のキャラクターと建築物を描いた記念の缶コーヒー
写真右=20周年を迎えた倉谷の同工場



東日本大震災 陸前高田市
陶芸家の高井さん、支援で訪れる
住民たち 1年区切りに前へ
自前でがれき処理阻まれ

 東日本大震災によって岩手県内で最大の被害を受けた陸前高田市。高台が少ない町の中心地は巨大津波で壊滅した。この地の被災者を支援する成生の陶芸家、高井晴美さん(47)が昨年11月と3月20日〜23日、同市を訪れた。震災から1年。町や人々はどんな様子なのか。 (青木信明)  同県最南部に位置する陸前高田市は人口約2万4千人。大震災で死者1555人、行方不明者240人を数え、建物も約7割が全壊などし、交通機関もJRが流され、車でしか町に入ることができない。  11月、高井さんは食糧を持参した。飲食店などが被害を受け、仮設店舗もまだ再開していないためだ。平地にある町はコンクリート製の建物が少し残る以外は全て流された。「町は何もなく、夜は真っ暗で死んだ町だと感じた。住民の気持ちも沈み、私も重たいものを持ち帰って1カ月は笑うことができなかった」  そして3月。中華料理など仮設店舗が並び、多数の重機ががれきを片付け、セメント工場が建設され、復興に向け稼動している。ボランティアの受け入れや高井さんを案内した製材所の村上富夫さんら住民も、自宅再建の意欲が湧いていたという。  一方、まだ足りない仮設住宅の建設がいまも続き、入居できない住民は小屋のような建物での暮らしを強いられている。がれき量は岩手県で最多の約101トン。同市は雇用創出も兼ねがれき処理専用プラントを造ろうとしたが、国や県の前例主義に阻まれた。  津波で多くの犠牲者を出した以前の市街地に、住民は「まだ行きたくない、見たくない」という気持ちが強く、工事車両だけが行き交っていた。一日中、町の中を走り回ったがボランティアを見ることはなかった。  まだまだ深い傷は残るが、人々の気持ちの変化を感じ取った。「妻と娘を亡くしたケーキ店の男性は、2人を助けられなかったことを悔やみ謝り続けていたが、1年を区切りに再びケーキづくりを決意していました。1年を節目にやるしかないという住民が増えていた」  そう語る高井さんもこの1年間、支援に走り続けてきた。今回も作品の収益金や市民が手作りしたキャラクター人形などを携え、交流する下矢作(しもやはぎ)保育園に30万円、陸前高田の震災遺児38人の支援のため、市民たちから寄せられた義援金19万円を届けた。  漁村に住み津波を人ごとに思えず、海をテーマにした作品づくりをしている自分を責める気持ちを抱えていた。「でも今回訪れ気持ちが軽くなり、私も一区切りをつけることができた。自分の作品づくりをしっかりしつつ、震災遺児の支援をしていければ」  「ラーメンを食べに行こう」と思うぐらい、近い存在になった陸前高田。今度は一緒に連れて行ってと甥っ子が声をかけてくれた。

写真左=町の中はがれき処理する重機が多数動く
写真右=観光バスを使った仮設店舗(写真は高井さん提供)


2012年3月27日

アカガイ 新たな特産品へ
漁業グループ 舞鶴湾で育成開始
市場でも高い評価
冬の味覚の高級食材
手間少なく 高い生存率

 舞鶴の新たな特産品づくりをしようと、漁業者たちのグループが舞鶴湾でアカガイの育成に取り組み、このほど東京築地市場に販売価格を調査するため試験出荷した。大きなサイズが高い値をつけるなど市場での評価も上々。初夏の丹後とり貝に対し、冬の味覚としてアカガイを地域ブランドとして育てたいと関係者は意気込んでいる。  アカガイは内湾の海底に生息する大型の二枚貝。鮨ネタなどに使われる高級食材として関東で需要が高い。東京築地市場では昨年約3千トン、約15億円の取り扱いがあり、主に韓国や中国から輸入されている。日本国内では宮城県などの天然ものが知られる。  舞鶴では、徳島県から種苗3千個を購入し、丹後とり貝の育成技術を応用して、長浜沖でいかだから海中に吊るしたかごで2010年11月に試験育成を始め、漁業者4人が昨年7月、「舞鶴アカガイ育成グループ」(丸岡作夫代表)を結成した。  1カ月に1度、かごを掃除するとり貝に比べて、2、3カ月に1度とアカガイは手間が少なく、生存率も高い。また、香川県では種苗を入れたかごを海底に置く方法で育て、6センチの出荷サイズに2年かかるが、舞鶴のこの方法だと約1年で出荷でき、しかも8センチの大型サイズができた。  今月中旬に行った試験出荷では、1個80グラム未満〜100グラム以上の5種類の規格で買値を調査した。キロ単価は2,100円〜3,675円をつけ、大型サイズが平均単価の6倍以上と高い評価を受けた。同グループの倉橋長司さん(58)=東吉原=は「とり貝に比べ手間がかからないのがいい。思った通りに大きなものができた」と手ごたえを感じている。  地域産業を支援する市のリーディング産業チャレンジファンドの助成を受けて、いかだなどを整備し、昨年11月と今年2月に種苗4万8千個を育て、さらなる出荷を目指している。

写真左=アカガイが入ったかごを上げる漁業者
写真右=大きく育ったアカガイ



福島の障害者 支援へ
PAUネット 義援金10万円
職員派遣のまいづる福祉会へ託す

 男女共同参画社会の推進に取り組む市民グループ「PAUネット」(大川るり子代表、会員20人)が、東日本大震災の津波と原発事故が重なった福島県内の障害者たちを支援しようと、同県の施設に継続しいまも職員を派遣しているまいづる福祉会に3月23日、主催事業の収益金10万円を義援金として託した。  PAUネット(=パワー&アクション・アップ・ネットワーク・オフィス)は、女性たちがメンバーとなって様々なセミナーやサロン活動などを実施する。昨年11月と今年2月には笑いヨガ講座と女3人落語会を開催し、その収益金を今回の義援金にあてた。  今回の大震災で、障害を持つ人の死亡率は持たない人の2倍になっており、災害弱者の実態が明らかになった。まいづる福祉会は昨年3月から福島県郡山市を拠点に障害者支援をするJDF(日本障害者フォーラム)に職員を派遣し、避難所などを回っての調査、福島第1原発から30キロ圏に一部が入る南相馬市の障害者施設の支援などに取り組んでいる。  被災地に15回ほど入っているワークショップほのぼの屋の西澤心施設長は、仕事の場を失くした障害者は失業手当がないため収入がたちまちなくなり、震災前より障害者の福祉施設の利用が増えているが、放射線の影響を心配して職員が避難し不足する現状を説明し、「そんな中でも力を合わせて元気を出そうと、仕事起こしを行っているところです。預かった義援金はJDFに届けます」とお礼を述べた。  大川さんは「人が人として生きられる社会づくりのため、被災地の障害者の方たちに少しでもお役に立てれば」と義援金を送った。

写真=ほのぼの屋の西澤施設長に義援金を渡す大川さんら


2012年3月23日

東北・被災地ルポ 震災から1年
―第8回― 復興に向け

被災者の意欲 得意を発揮し支援
不足する人・資金・関心

 被災地を案内してくれたNPO法人難民を助ける会(東京都品川区)は、国内・海外を問わず、被災地や紛争地での緊急支援、地雷撤去などに取り組む。  今回の大震災でも仙台市や盛岡市などに事務所を置き、支援の手が届きにくい障害者や高齢者たちを中心に、約1500カ所で支援物資の配布、福祉作業所などの施設約50カ所の再建、仮設住宅などでの心のケアや地域交流など多くの活動を実施している。東京本部から派遣された職員が常駐するほか、被災者20人が採用され自ら支援にあたる。  震災発生から2日後に現地入りした助ける会東北事務所長の野際紗綾子(さやこ)さん(35)。震災から1年を経過して課題を3つ上げた。1つは足りない人、お金、関心。例えばがれき撤去や炊き出しなど、まだまだ多くのボランティアが必要だ。復旧・復興を実行する自治体や支援する団体の資金不足、そして被災地への関心が激減する。  2つ目は災害弱者と言われる障害者や子供たちへの配慮が足りないこと。津波の被害にどうしても注目が集まるが、内陸部の岩手県花巻市にあり、地震によって建物の一部が壊れた障害者たちのアート創作や作品展示の施設「るんびにい美術館」に対し、助ける会は補修支援をした。3つ目は支援している人たちの心身の健康問題という。  震災後、被災の東北三県で12万人が失業し、人口は計8万人減少した。仮設住宅で灯りもこたつもつけず生活を切り詰める高齢者から「私たち、忘れられているのかねぇ」とポツリと漏らした言葉が、野際さんの胸に深く残る。「未来に希望を持てないと思っている人も多い。復興には8年から10年はかかるとされ、これからが勝負」と、福祉作業所の商品開発や販路開拓、趣味や生き甲斐づくりなど、被災地の人たちの意欲を後押しする。  私たちにできることは何か。まず「関心を持ち続けてほしい」、次に「地域で支援イベントへ参加するなどできることから始めて」、そして最後は「?」とした。「被災地には1人1人違ったニーズがあり、支援する側も得意なこと、関心のあることを活かして多くの人が関わってほしい。いますぐ何かできなくても情報収集し考えることで、将来何かできるかもしれないですから。力になりたいという方たちの想いをつなぎ、形にしていきたい」と前を見る。  野際さんに率いられるスタッフも頼もしい。盛岡市の京野克彦さん(43)と坂むつみさん(36)は、直接支援に携わりたいと会社を退職するなどして助ける会に入った。東京本部から同行した山本祐一郎さん(29)は英語を教える仕事でインドネシアに滞在中、大震災の映像を見たのを機に、いても立ってもいられず日本に飛んだ。  舞鶴から訪れた陶芸家の高井晴美さん、洋裁デザイナーのよしだ敦子さん。これまで市民や仲間の協力を得て、自分の仕事を通し支援に取り組んできた。「被災地はもう復興したと思っている人もいる。つながりを大切にこれからもこつこつと支援を続けたい」と高井さん。今月、岩手県陸前高田市に向かった  よしださんは17年前、阪神淡路大震災の発生時、大阪市内にいた。被災して何もかも失い、サンダル履きの会社社長をホテルで目にし、その姿が忘れられない。「何かことが起きればみんなハダカになり、最後に残るのは人のハートだと思った」と語る。市民への報告と支援の継続の意志を強くした。  わずか3日の取材、見てきたものはごく一部にしかすぎないが、大きな問いかけを持ち帰ったように思える。自分に何ができるか、震災を抜きには考えられない日常が始まった。この問いを大切にしたい。被災地は、いつか再び行かなければならない場所になった。 (おわり)
(このシリーズは青木信明が担当しました)

写真=被災した施設の代表者から話を聞く、難民を助ける会の野際さん(右)らスタッフ(1月31日、釜石市)



協定から逸脱 市へ不信感
処分場の大波上 がれき受け入れで

 多々見良三市長が東日本大震災で発生した宮城と岩手のがれきの条件付き受け入れを表明したことを受け、3月18日夜、一般廃棄物最終処分場がある大波上の集会所で説明会が開かれた。約30人の住民が集まったが、市長の受け入れ表明に「順序が違う。環境保全協定からも逸脱している」と市への不信感を示した。  大波上自治会の要請を受けて、直接住民に説明するため多々見市長はじめ、参島肇・市民環境部長ら6人が出席して開かれた。冒頭、大波上処分場の対策委員会事務局長の関本長三郎さんが、処分場をめぐる地元と市との経過を説明した。  昨年、滝ヶ下処分場から地元に無断で大波上処分場に廃棄物を搬入し、その後、協定に定める埋立物以外のものを持ち込む場合は事前協議が必要とする協定を地元と市で結んだことを上げ、「市民と市長の約束を書面で取り交わしておきながら、こんなに簡単に反故にされてもよいものなのか」と疑問を呈した。  さらに、大波上処分場の埋立容量は10万立方メートルで15年間使用すると協定で記されているが、2010年の使用開始からすでに埋立量が約40%に達したのを地元側で指摘したことを示し、「このままでは遅くても八年で満杯の状態になる。こんな仕事をしておきながらどうして震災復興のお手伝いと言えるでしょう。もっと足元を見てほしい」と述べた。  多々見市長は「ご指摘の通り不手際があり、ご迷惑をおかけしたことをお詫びします」と謝罪した上で、「東北の復興のため何かできないか、手助けをしたいとの思いから表明した。東北で、そして地元で安全をチェックしたものに限り、身の丈にあった量を処理する。繰り返し説明にうかがいたい」と理解を求めた。

写真=住民に説明する多々見市長


2012年3月21日

引き揚げの史実 後世に
NPO語りの会
123人の体験記 冊子に収録
学校や図書館にも配布 学習パンフレットも作成

 舞鶴引揚記念館を拠点に引き揚げの史実を語り継ぐ活動をするNPO法人舞鶴・引揚語りの会(濱朗夫理事長、会員30人)は、来館者から寄せられた体験記をまとめた冊子「引揚の記録 60余年の記憶の中から」を作成した。123人が過酷な抑留などの体験を振り返り、戦争を繰り返してはならないと強い決意を綴っている。  2006年から2千枚以上の体験記を募る呼びかけ案内を配り、昨年5月までに142人から寄せられた中から本人らの承諾を得た123人の体験記を掲載した。内訳は軍人・軍属が98人、その家族ら一般邦人が25人。  冊子はA4版で264ページ。帰国年月日や抑留地、抑留年数などの略歴をはじめ、抑留された収容所での労働、ソ連兵に武装解除されるまでに出会った日本人の難民たちの中で、殺してほしいと懇願する婦女子がいたこと、引揚体験者の自分たちが悲惨な戦争が起きるのをくい止めるため、近隣諸国と信頼関係を築き、平和の尊さを次の世代に引き継ぎたいなどを記す。  濱理事長は「体験者が高齢化していることから、これが最後の聞き取りだと思う。戦争だけでなくその後も続く悲劇の体験を若い人に伝えたい」と話す。600部作成し、学校や図書館に配布した。約200部を実費で販売している。1冊1,000円。
【問い合わせ】電話68・0145、山田さん。
 また、同会は小学生向けに引き揚げの学習パンフレット「引き揚げのまち舞鶴」(A4版、8ページ)を2千部作成した。小学校の出前授業や記念館でのガイドに活用する。

写真=完成した体験記とパンフレット



舞鶴出身のオペラ歌手
西村さんが4年ぶりに故郷で歌声
恩師・藤原さん門下生のコンサートに出演
3月24日、市商工観光センター

 舞鶴出身でプロのオペラ歌手をめざして、3月に新国立劇場オペラ研修所で3年間の研修を修了した西村圭市さん(28)=写真=がゲスト出演する「第29回藤の音コンサート」が、3月24日午後1時から浜の市商工観光センターで開かれる。西村さんは、4年ぶりに故郷で、バリトンの歌声を響かせる。入場無料。  同コンサートは、自宅でピアノと声楽を指導する高校音楽講師の藤原眞紀子さん=北吸=の門下生と卒業生による年1回の発表会。西村さんは白糸中、東舞鶴高の6年間、藤原さんの指導を受けた。  西村さんは、大阪音大に進学。同大学院生だった07年、第61回全日本学生音楽コンクールの声楽部門で2位に入賞した。これを記念して、翌年3月に藤原さんが、西村さんの「ミニリサイタル」を企画した。西村さんが舞鶴で歌うのは、それ以来となる。  コンサートは4部構成で、西村さんは第4部に出演。後輩の大阪音大の声楽科3年、半林知里さん、ピアノ科1年の半林温子さん姉妹の発表に続いて、トスティー作曲の「ノンタモピュー」、オペラ「愛の妙薬」からベルコナレのアリアを歌う。  このほか、第1部で門下生と卒業生の13人によるミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」、第2部で東日本大震災の被災地にエールを送る「キズナ」を作詞・作曲したノブヒコさんがギター演奏して歌う。
【問い合わせ】電話63・6436、藤原さん




2012年3月16日

東北・被災地ルポ 震災から1年
―第7回― 岩手県釜石市C

震災で地域の課題むき出しに
被災の市民、戸惑いの中

 釜石の復興に向け、市民生活に密着した情報を伝える「復興 釜石新聞」。自らも被災者として最も間近にまちを見る記者の後川邦彦さんに、いまの釜石のありようと市民の様子を聞いた。  釜石市は1963年の9万2123人をピークに人口は減り続け、震災前には4万人を割り込んでいた。89年に基幹産業である新日鉄の高炉の火は消え、水産業の漁獲高も減少し地域経済の地盤沈下が激しい。若者たちは市外に流出して過疎化が進み、65歳以上の人口割合を示す高齢化率は33.5%(2011年12月)と、舞鶴市を大きく上回る。  人口減少、高齢化、一次産業の後継者不足の問題は国内の地方全体にあてはまるのだが、東北はそれが顕著に現われていることを実感した。そこにさらに今回の震災が追い打ちをかけた。「若い世代は盛岡など内陸に転出している人もおり、この1年でさらに増えるだろう。震災は地域の課題をむき出しにした」と後川さんは指摘する。  復興の言葉が飛び交うが、その中身はあいまいなままだとも。何を、どこを目指しているのか、釜石市も具体的なイメージを提示できていない。「市民たちはめげてはいられないと思う一方、積極的に一歩ずつ前へ進もうとしているのかは分からない。多くの人は戸惑っているのだと思う」  厳しい現実を背負うにも関わらず、「こうやって皆さんが、私たちのことを思ってくださることが本当に力になります。どうか無理をせず続けてください。互いに元気でいればまた会えますから」と逆にいたわりを受けた。  同新聞に、同市在住のフリーカメラマン、藤枝宏さん(54)が写真集「釜石の記録」を出版、収益金100万円を同市に寄付した記事があった。電話をすると誠実な人柄がうかがえる声で応対してくれた。  市民から写真で記録してほしいとの要望を受け、藤枝さんも自宅が流されていたが出版を決意。震災直後の被災状況を撮影し、がれきの中から何カ月もかけ以前撮影したフィルム原版を探し出し、405点を収録した写真集を昨年8月に作り、2回の増刷で約1万3千部を販売した。  藤枝さんは「今年は復興元年と言われますが、住宅再建にしてもどこに住んでいいのか計画が煮詰まっていない」と語る。「年老いた父母をいたわるように、津波被害を受けて変わり果てた釜石をこれからもずっと見守っていきたい」と写真集のあとがきに記したように、いまもファインダーからまちを見つめ、同新聞に掲載している。 (つづく)

写真=がれきの中から見つけた写真。2007年5月の釜石の町(藤枝宏さん写真・文「釜石の記録」より)



自閉症 映画で知って
『星の国から孫ふたり〜『自閉症』児の贈りもの〜』
3月25日 市民会館で上映会

 映画で自閉症への理解を深めてもらおうと、つなサポ運営委員会が3月25日、北田辺の市民会館で、「星の国から孫ふたり〜『自閉症』児の贈りもの〜」(槙坪夛鶴子監督)を上映する。来場を呼びかけている。  障害を持つ子供や家族の生活を知ってもらおうと、市内の5つの団体が2010年に同委員会を結成し、地域の人たちとつながり支援を広げていくための活動を続けている。  自閉症は生まれながら脳機能に障害があり、人とのコミュニケーションが苦手などの特徴がある。外見からは障害のことが分からず誤解されることもあるが、適切な支援があれば成長できる。  映画はアメリカ在住の2人の孫が自閉症という原作者、門野晴子さんの体験を元に映画化した。作家の太田弓子のところに米国から帰国した娘夫婦の子供が自閉症と診断されるが、弓子は「自閉症って不思議がいっぱい」と前向きに孫の成長を見守る。自閉症の子供と家族、療育者、教育現場のあり方をとらえ直す。  出演は馬渕晴子、比留間由哲ら。上映時間は@午前10時半A午後1時半。入場料は大人1,000円(当日300円増し)、高校生以下は無料。
【問い合わせ】電話090・8794・9869、橋本さん(午後5時以降)

写真=映画の1シーン(「星の国から孫ふたり」製作委員会提供)


2012年3月13日

あんしんネットワーク
要援護者の避難確保へ
38団体、460人が防災訓練

 東日本大震災の発生から1年となる3月11日、森・行永・与保呂地区「あんしんネットワーク」(村尾幸作実行委員長)は、丸山口町の児童公園で、地域防災訓練を実施した。地元自治会、南消防団、小、中学校、福祉施設など38団体、約460人が参加して、災害弱者といわれる高齢者や障害者ら要援護者の避難確保を中心に訓練が行われた。  訓練は、避難場所に想定した同公園周辺の丸山口、丸山中、丸山、丸山西、愛宕の四町内の住民(650世帯、1500人)を対象に実施。震度6強の地震が発生したとの想定で行われた。  各町内会の組長が、ハンドマイクを手に住民に避難するよう通報。要援護者に扮した住民らを誘導して、あらかじめ決めた場所に集合した後、同公園に避難。住民の安否確認を行った。  同公園内では、要援護者の援助を想定した訓練が行われた。認知症者への対応や家具などの下敷きになった負傷者の救出・救助などに参加者が取り組んだ。  村尾実行委員長は「訓練をきっかけに、命や地域の絆の大切さを知り、災害に備えたい」と話していた。

写真=担架で負傷者の搬送訓練をする中学生ら



原発ゼロ・アクションin舞鶴
1200人が集会とパレード
府北部・若狭発信の声

 脱原発を市民が意思表示する「3.11原発ゼロ・アクションin舞鶴」(同実行委員会主催)が3月11日、浜のしおじプラザで開かれた。若狭原発群に隣接する府北部から約1200人が参加、「原発のない社会を」と訴えた。  集会では、呼びかけ人の弁護士、吉本晴樹さんが「原発事故が起きたとき、憲法25条が保障する生存権を根本的に脅かす。私は生存権を擁護する弁護士として呼びかけた。皆さんそれぞれの表現で脱原発へのアクションを起こしましょう」とあいさつ。  続いて、京都の原発を考える会・共同代表の舞田宗孝さんが、定期点検中の関西電力大飯原発3、4号機の再稼動反対や放射能から子供を守る活動を続ける母親らが、脱原発を訴えた。  この後、参加者は「子どもたちに原発のない社会を」と書かれた横断幕やプラカードを手に、JR東舞鶴駅まで3コースに分かれてパレードした。

写真=脱原発を訴え集まった参加者


2012年3月9日









東北・被災地ルポ 3.11を前に
―第6回― 岩手県釜石市B

被災で休刊の記者ら 地域紙創刊
復興向け新聞の必要高まる

 釜石市のローカル紙「岩手東海新聞」も被災した。1948年創刊の夕刊紙で隣接する市町もエリアに、約1万4千部を発行していたが、今回の津波で記者2人が亡くなり、輪転機も水没したため休刊に追い込まれ、社員19人が昨年3月25日に解雇された。  しかし、被災者が求める身近な情報が極端に不足し、細かな情報はラジオで放送されるが、何度も読める紙媒体の要望が高まった。一方、市役所の機能が麻痺した釜石市も様々な支援情報を伝える必要があったことから、市は緊急雇用対策事業として約3千万円の支援を決め、社員11人が釜石新聞社を設立し、広報紙を一部兼ね昨年6月から「復興釜石新聞」をスタートさせた。  ブランケット版の4〜6ページ建てで、盛岡市の地域紙・盛岡タイムス社に印刷を委託し、仮設住宅を含む市内全世帯に社員や行政連絡員たちで週2回(水、土曜日)、無料配布している。手に取った紙面には支援や商店などの生活関連情報や復興状況、新しい町への市民の願いなどが掲載されていた。1年後に有料の地域紙として自立を目指す。  舞鶴市民と難民を助ける会による釜石視察を取材した同紙の後川(うしろかわ)邦彦記者(59)。震災当日、隣の大槌町の海岸でワカメ漁の様子を取材していた。地震後、釜石市へ戻ろうと車を走らせ、国道45号の古廟(こびょう)峠を越えると、鵜住居(うのすまい)地区が津波に飲みこまれる光景が目に飛び込んできた。  自宅がある唐丹(とうに)町の母(87)の安否が気遣われたが、それ以上進むことができず、その夜は水道工事の作業小屋で過ごした。ここには津波を逃れた約20人が米や漬物などを持ち寄り、小屋にあった自家発電機を動かし炊飯器で米を炊き、「卵かけご飯の豪華な食事ができた」という。  次の日、がれきで覆い尽くされた町を自宅まで20キロを歩いて戻った。気がつくとゴム長靴は穴だらけに。自宅は流されていたが幸い母は無事だった。自宅の庭で仕事をしていた造園業者たちが、母を高台まで避難させてくれていたのだ。いまは仮設住宅で一緒に暮らしている。  多くの質問を用意していたが、淡々とあの日を振り返ってくれる後川さんの話に耳を傾けた。 (つづく)

写真左=震災当日の様子を話す後川記者(右)(1月31日、釜石市)
写真右=身近な支援情報などを載せる「復興釜石新聞」



古本屋 今月末で閉店
ブックハウスほのぼの屋
障害者と市民交流も
売り上げ減で

 障害者たちが働く行永のブックハウスほのぼの屋が、今月末で閉店することになった。1998年の開店以来、地域の古本屋として住民たちとのふれ合いの場にもなっていただけに、惜しむ声が寄せられている。閉店セールを3月11日から31日まで行う。  「お店屋さんがしたい」との障害者の希望で始まり、ここでの店舗経験を元に、さらに高い収益と障害者の能力を引き出そうと、カフェレストランが誕生した。市民から無償で寄せられた本、レコード、雑貨など約2万点を並べる。しかし、活字離れもあって来店者が減り、ネット販売で減少分を補うも売り上げを回復するまでには至らなかった。  利用する市民は「時々掘り出し物を見つけていただけに残念」と惜しむ。指導員の伊藤薫平さんは「メンバーたちと話をして帰られるお客さんもおられました」と振り返り、長年の支援に感謝する。  古本屋は今月末で終了するが、障害者たちはまいづる福祉会が運営する他の事業所へ移る。また、舞鶴市民新聞の配達・集金などの仕事は継続し、店舗の今後の活用法も検討中。  セールは大幅割引をする。営業は午前10時〜午後7時半。水曜休み。
【問い合わせ】電話62・1010、同店

写真=地域の古本屋として親しまれてきたほのぼの屋


2012年3月6日

三たび結集 被災地支援
東日本大震災一年で 作家たち、チャリティ作品展
サンムーンで3月9日から11日
現地の報告会も

 東日本大震災から間もなく1年になるのに合わせ、市民や各地の作家たちが、第3回目の被災地支援のチャリティ作品展に取り組むことになった。力を合わせ作品の収益金をNPO法人難民を助ける会に託すほか、被災地を訪れた作家らが現状や自分たちにできる息長い支援の必要を報告する。3月9日〜11日、浜のギャラリー・サンムーンで開かれる。入場無料。  市民と作家たち、画廊オーナーの佐藤保明さんが実行委員会(谷公人代表)を作って、昨年4月と9月の2回チャリティ展を開き、被災地で施設修繕や心のケア、障害者たちの支援などに取り組む難民を助ける会に計約100万円を寄付した。  震災から1年が近づくにつれ、被災地への関心が低くなる中、陸前高田市などへ支援物資を運んだ市民たちから話を聞いた佐藤さんと作家たちが長期間の支援が大切と感じ、三たび協力する。舞鶴や府北部、京都市などの作家たち約20人が、陶器、絵画、木工、ガラス、あかり、和かばんなどを出品し、購入しやすい価格で販売する。  同助ける会の案内で1月30日〜2月1日、宮城県南三陸町などを訪れた陶芸家の高井晴美さんと洋裁デザイナーのよしだ敦子さんが、3月9日と11日の午後2時から現地を見て感じたことを伝える。がれきがいまだに残り、復旧が進まない現地を撮影した写真も展示する。  佐藤さんは「津波がきたときのままがれきや車が放置されている様子を知り、じっとしていてはいけないとの想いをたくさんの人たちと共有して取り組むことができました。ぜひ来場していただきご協力をお願いします」と話す。午前11時〜午後6時(最終日は午後5時)。
【問い合わせ】電話63・4858、サンムーン

写真=寄せられた作品と協力を呼びかける佐藤さん(左)、陶芸家の西野さん



母による ノー モア ワカサ
想いを綴って手紙に
市長へ届けよう

 母親たちが原発のない暮らしへの想いを手紙に込め、在住する自治体首長に届けようと、「母によるノー!ノーモアワカサ・アクション」に取り組んでいる。  脱原発や自然エネルギーの普及などを求めて活動する市民団体「舞鶴ピースプロジェクト」メンバーの今井葉波さん=西方寺=が、舞鶴や綾部、丹波などの女性たちに呼びかけている。同グループは2月20日、大飯原発3、4号機の再稼動を認めないよう求める要望書を、多々見良三市長宛てに提出するなどした。  今井さんは呼びかけ文の中で「私たちの暮らしは若狭原発14基と高速増殖炉1基の近隣にあり、『ここで産んでいいのだろうか』『ここで子どもを育てて大丈夫なのだろうか』という不安の上に揺らいでいます。フクシマの子どもたちのことも、その将来を思うと、いたたまれません」と綴っている。  地域の仲間や個人で、脱原発政策や食の安全、日々の想いを書き、3月9日付で在住する市町村長宛てに郵送、FAX、メールなどで送ってほしいとする。岡田中地区では農業や子育て中の女性たち約15人が手紙を書き進めており、9日に市役所へ直接届ける予定。
 問い合わせは今井さん(電話60・1246)へ。

写真=各自の想いを述べ合う母親たち


2012年3月2日

東北・被災地ルポ 3.11を前に
―第5回― 岩手県釜石市A

被災分散で深刻さ見えにくく
仮設暮らし 生活不活発病増える

 釜石市の被害を数字から見ておきたい。釜石市災害対策本部が昨年11月にまとめた資料によると、死亡者数は886人、行方不明者は173人。家屋被害は全壊が2954、大規模半壊396、半壊291。主産業の水産関係被害額が約225億円にのぼる。  鵜住居地区に次いで被害が大きかったのが、市役所や事業所、商店が並ぶ中心部の釜石地区だ。立ち並ぶビルは流出することはなかったが、営業を再開している店舗に交じって、壊れて空き屋になった建物がそこここに散見される。人通りは少ないが一軒のホテルは満室だった。  町の中心部は沿岸だけでなく、JR釜石線に沿って内陸部にも続いているため、町の機能が残ったことで被災直後の活動も早かった。一概に被災地といっても被害の程度は様々で、それが住民たちの意識にも影響してはいないのだろうか。後に被災者の間で格差が生まれていると聞いた。沿岸部一帯のほぼ全ての建物が失われた南三陸町に比べ、被害が分散しているためその深刻さは見えにくい。  釜石市では3164戸の仮設住宅を建設し、3102戸が入居(昨年11月)した。市内でも最大規模の仮設住宅団地がある平田(へいた)地区を訪れた。一般の住居のほかに、ケアマネジャーの相談室、子育て支援の場のママハウス、スーパーや食堂などの平田商店街も入っていた。近くには障害者や高齢者が入居する福祉棟も並ぶ。雪の降る外では、ボランティアの若者たちが雪かきをしていた。  被災地では仮設に入居してもこれまでの畑仕事などができなくなり、また寒さもあって閉じこもりがちな人も多く、特に高齢者にうつや体の機能が低下する生活不活発病が目立つ。その対策として難民を助ける会は宮城と岩手の仮設や障害者施設などで、カウンセラーによる傾聴活動、健康体操や地域交流イベントなどを実施し、被災者の心身の健康の回復にも務めている。  助ける会は釜石市で空き室の仮設住宅を現地事務所として利用している。仮設で寝泊りもするスタッフの京野克彦さん(43)は「室内にすきま風が入るので天井部分をテープで塞ぎました。トイレの水も凍って使えなかったり、ひどい時には室内で結露した水分でつららができています」と、この冬の仮設暮らしの厳しさを肌で感じていた。 (つづく)

写真=平田地区の仮設住宅で雪かきをするボランティアたち(2月1日、釜石市)



平和な未来へ ともに歩みを
韓国ハンサリムの市民
浮島丸事件で舞I市民と交流

 有機農産物の生産・産直や平和運動を進める韓国市民のグループ「ハンサリム」のメンバー15人が、浮島丸事件の犠牲者を追悼する舞鶴市民と交流しようと、2月27日、下佐波賀の殉難の碑に献花し、過去の歴史を乗り越え未来をつくろうと話し合った。  ハンサリムは産直活動、命と平和を大切にした社会改革を行う運動などに取り組み、韓国全土に19の地域支部を組織し、30万世帯の会員を擁する。  日清戦争(1894〜95年)の最中、抗日運動を展開した朝鮮の東学農民軍をたどる戦跡ツアーを同グループが企画し、舞鶴から戦争展を主催する実行委員会事務局長の橋本安彦さん、浮島丸殉職者を追悼する会会長の余江勝彦さんが参加した。  戦争直後、青森で過酷な労働を強いられた朝鮮人労働者が乗る船が、釜山に帰国途中に舞鶴湾で爆沈し549人が犠牲となった浮島丸事件を、余江さんがツアーで韓国市民に紹介し、今回の交流が実現した。  東学農民戦争を研究する韓国の大学教員のパク・メンスさん(56)らが来鶴。一行は殉難の碑の前で地面に頭をつけ犠牲者を悼み、余江さんから「日本人の責任として語り伝えることが、亡くなった人たちとの約束」と説明を受けた。  ハンサリム慶南理事長のユン・シンチョンさん(50)は「舞鶴市民に感謝するとともに、事件で亡くなった人たちの悲しみも胸に、今後も交流を続け平和を築きたい」と話した。ブドウ農家のキム・ソンスンさん(82)は「韓日の過去の不幸な歴史が落ち葉のように降り積もり、栄養分となって未来に花や実をつけてほしい」と語り、「平和」と書いた書を贈った。

写真=殉難の碑の前で爆沈した海を見つめる韓国市民たち


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