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2013年8月30日












シリーズ・語り伝えるヒロシマD
いま伝えなければ…
体験語れる最後の世代

 広島平和記念資料館でボランティアガイドを務める末岡昇さん(75)=広島市東区=に、資料館を案内してもらった。旅館を営んでいた実家は爆心地から900メートルで、祖父たちを亡くした。当日は五日市に出かけ無事だったが入市被爆した。
 「米国政府は原爆の使用は戦争を早期に終結させるためだといまも正当化し、6割の米国人が支持している。多くの外国から来る人たちに、原爆投下について見て考えてほしい」と案内を続けている。一方、「体験者の減少で伝える力が弱くなり、都会の子供たちはうじも知らず、話が通じないこともあります」と気がかりを話す。
 6日午前5時半過ぎ、すでに多くの人が集まっていた公園。メディアが取り囲む慰霊碑から離れ、木々の中にある供養塔に行ってみた。身元不明の遺骨が納められているためか観光客はおらず、被爆者や遺族たちの姿が目につく。
 広島市内の田中美恵子さん(90)。家屋の下敷きになったが自分と1歳の息子は助かった。「あの悲劇を見ているから、毎年この日にお参りは欠かしたことがない。『助けて』という声を聞きながら、火に追われて逃げるので必死で何もできなかった。言葉で原爆の体験を語れません」
 爆心地から2・4キロにいた植松一広さん(81)。建物疎開の作業が休みで家にいて助かったが、町内会の仕事で外出した母が亡くなった。「姉は助かりましたが、いまも体の中にはガラス片が残っています。静かに母を慰めたいと毎年朝早く来ています」  山田達磨さん(77)=愛宕中町=も、父母の名が納められた慰霊碑に向かって手を合わせた。集団疎開でなかったため、広島市内に留まった多くの国民学校の友達を亡くした。生き残ったとの想いも強く、「いいかげんには生きられない」とその後の人生を歩んできた。
 今回、被爆体験について初めて取材に応じた。「被爆者も高齢化し、戦争を知らない人も増えている。当時8歳だった私たちが、体験を語れるぎりぎりの世代になってきた。いま伝えなければという気持ちが湧いてきた」
 結論を押しつけるつもりはない。「あの戦争で日本は平和のために戦っている、と思い込まされていたのだから」。体験から何かを汲み取り、自分で考えてほしいと問いかける。
 奇しくも8月6日が誕生日。そして父の命日でもある。これからも広島に通い続ける。 ※この連載は青木信明が担当しました。今回で終わりです。

写真左=山田さんに説明する末岡さん(左)=平和記念資料館で
写真右=慰霊に訪れた被爆者や子供たち=原爆供養塔前で



310人が参加 高校生も
悲惨な歴史 繰り返さない
浮島丸事件の犠牲者追悼

 浮島丸事件の犠牲者を追悼する集会が8月24日、下佐波賀の殉難の碑公園で開かれた。310人が参加し、事件を風化させず二度と繰り返さない決意を新たにした。
 青森下北半島で鉄道建設などに従事させられていた朝鮮人労働者と家族たちが、終戦直後の1945年8月22日に輸送艦「浮島丸」に乗って大湊港を出て、釜山に向かう予定だったが24日に寄港した舞鶴湾で船が爆沈し、乗組員も含め549人が死亡した。
 集会では浮島丸殉難者を追悼する会の余江勝彦会長が「日本人の責任として事件から教訓を学び、平和の確立に向け追悼を続けることが犠牲者の皆さんとの約束です」と述べた。
 続いて韓国茶道家と韓国伝統舞踊家が追悼の献茶と舞を披露、京都朝鮮高級学校の生徒たちが追悼歌を合唱し、最後は全員で海に向かって献花した。
 福知山高校1年の加藤千春さん(15)は「初めて参加しましたが、実際に見てみないとわからないこともあると感じました」、綾部高校3年の和泉優香さん(17)は「こうした悲惨な歴史を二度と起こしていけないという気持ちが伝わりました。私たちの世代にも引き継いでいきたい」と話していた。

写真=爆沈した海に向けて手を合わせる高校生たち



2013年8月27日

シリーズ・語り伝えるヒロシマC
被爆者の証言よぎる
溶鉱炉に投げ込まれた街
遺骨と瓦礫の上に復興

 山田さんと式典前日に入った広島市の平和記念公園を歩いた。たくさんの子供たちのグループが、平和学習で訪れているのが目につく。おびただしい遺骨と瓦礫の上に復興した街を、夏の太陽がじりじりと照りつける。あの日は日差しの暑さよりも、地上の熱気が上回った。
 広島上空580メートルで爆発した原爆。半径約15メートルの火球の表面温度は30万度、1秒後に火球は膨張し1万2千度になった。太陽の表面温度は6千度。まちのすぐ上に太陽が2つ並んだようなものだ。爆心地付近は3千〜4千度に熱せられ、真下にあった島病院は多くの患者が消え、いくつかの骨片が残されただけだったという。
 そして音の2倍の速さである秒速350メートル、畳1枚あたり10トンの圧力の爆風が地上のものを一気に吹き飛ばし、その後に起きた炎がまちをなめ尽くした。眼に見えない放射線の急性期症状で多くの人の命が奪われ、いまだに人体に影響を及ぼしている。当時広島市の人口35万人前後の内、死没者は1945年末までに13〜15万人にのぼった。
 まちが溶鉱炉の中に投げ込まれたかのようになり、まわりは黒い瓦礫ばかり。そして人は焼け焦げた魚のようになり、その群れがうごめいていた。黒くただれた遺体、皮膚がずるりとむけ垂れ下がってさまよう姿は、もはや人間の姿ではなかったと多くの被爆者が伝える。
 頭のない赤ん坊を背負ったままただ黙々と歩く母親、何度も空缶に水をくみ、すでに息絶えた母親の口元に流し込む3〜4歳の男の子、溶けたアスファルトが裸足に下駄のように張り付いたまま歩く人、自分より大きな体の瀕死の息子をおぶる老母。いくつもの証言が頭をよぎる。
 広島文理科大などで勤務した小倉豊文さんは、灼熱地獄の噴火口の底に下り立ったようだ、と手記「ヒロシマ―絶後の記録」に綴った。原爆で妻を亡くしたが、残された3人の子供たちと一緒に見送った。宮澤賢治が大好きだった妻を想い、「雨ニモマケズ」を合唱して、賢治葬とした。
 68年前、野辺の送りをする無数の白い煙が、広島の夏空に向かって昇った。祈らずにはおられない。(青木信明)

写真=ヒロシマの体験を学ぼうと訪れた子供たち(8月5日、平和公園)



StarLightの大塚さんが指導
約70人のコーラス隊 練習励む
亀渕友香ゴスペルコンサート
9月1日、総合文化会館で

 浜の総合文化会館小ホールでこのほど、ヴォイスワークショップが行われ、市内外から参加した男女約70人が、9月1日に同館で開催される「亀渕友香 with StarLights ゴスペルコンサート」出演に向け、練習を行った。8月31日にも大ホールで練習を行い、当日は日本のゴスペルシンガーの第一人者の亀渕さんらと一緒に、メインコーラス隊として2曲を披露する。
 市文化事業団が企画し、12歳〜73歳までの男女が、英語詩の「OH HAPPY DAY(オーハッピーデイ)」と「HALLELUJAH(ハレルヤ)」の2曲を歌う。
 講師にStarLightsのメンバー・大塚桂(かつら)さん(36)=東京都=を迎え、初日のこの日は、難解とされている楽曲「ハレルヤ」を練習。ソプラノ、メゾソプラノ、アルト、男声のバスの4パートに分かれ、伴奏に合わせてハミングで発声の基本を学んだり、手拍子に合わせてメロディーやハーモニーを練習した。
 大塚さんはゴスペルの高音域の発声を「頭の上の空気が開く感じで」「声は目、口、お腹から出ます。辛くなったら顔で歌いましょう」などとアドバイス。ゴスペルは少ない言葉数を繰り返し歌うことで盛り上がっていく曲調のため、参加者たちは何度も歌い、英語詞を自然に身に付けていった。
 参加した谷口実智代さん=溝尻=は「ボイストレーニングを受ける機会があまりないので参加しました。ゴスペルが歌えてうれしい」と話していた。
 大塚さんは「初めて訪れた土地なので、リズムに重点を置いて歌を楽しんでもらいたい」と話している。コンサートの問い合わせは電話64・0880、同館。

写真=大塚さん(右)の熱のこもった指導を受け各パートに分かれ練習する参加者たち



2013年8月23日

シリーズ・語り伝えるヒロシマB
10年後…父の死確認
原爆語らなかった母、手記残す
自身の被爆体験 話すこと迷い

 原爆で行方がわからなくなった父貞之助さん。45歳だった。山田さんは長い間、父がひょっこりと帰ってくるのではと思っていたという。
 原爆から10年後。姉が母志満さんの本籍地の福知山市役所へ戸籍謄本を取りに行った時のこと。そこには父が1945年8月6日、広島市内で死亡と書かれていた。亡くなる直前の貞之助さんから、本籍地や名前を聞いた広島西警察署の署長が福知山市役所に伝えていたのだ。署長の名前を調べ、最後の様子を知らせてくれるよう母と姉が手紙を出したが、多くの犠牲者を看取った署長からは父のことを聞きだすことはできなかった。
 広島に身寄りのなかった山田さん一家は戦後、母の実家の福知山を経て舞鶴で暮らした。母は父の助手だった人からガラス製造の技術を教わり、ガラス製品を作る仕事のほか、佃煮や酒を売る店も開いた。その日の食べるものもない困窮の生活の中、4人の子供たちを育て上げる。1987(昭和62)年、80歳で亡くなった。
 生前、原爆のことを口にしなかった母だが、遺品を整理している時、文箱から母が書いた長い手記が見つかった。早くに父を亡くした子供たちに、原爆前後の父の様子を残そうと、41年10月に書いたものだ。
 子煩悩な父と笑いの絶えなかった家族の生活、一方、全てが焼き尽くされた広島の街のつらい記憶にも向き合った。そして「被爆四十年を迎えて」と題した文章には、「四十年が過ぎても八月六日が来れば、やはり悲しい、涙がにじみ出ます。戦争は絶対にいけません」と記す。山田さんがワープロで起こし、冊子にして姉妹たちに配った。
 戦後、大きな健康被害も出なかった山田さん。被爆体験を口にしないようにと母から言われていたが、日星高や中学校などで数回、請われて話したことがある。しかし、積極的に語ってきたわけではない。
 「原爆投下後、家の下敷きになった子供たちを助けられず、見捨てざるをえなかった人たちや、そうした体験をいまも話せない人が本当の被爆者だと思う。私は被爆者といってもほとんど被害はなかった。話す資格はないと思ってきた」
 だが、小さかった我子を広島に連れて行き、自分の時間が持てるようになった約20年前から式典に続けて通うなど、広島の体験は特別なものとして刻まれている。(青木信明)

写真=焼け野原となった広島市の街の写真パネル。左端は原爆ドーム(平和記念資料館で)











デフリンピックの卓球で金メダルの快挙
おめでとう上田萌さん!
市長報告、市民たちが祝賀会
「五輪で活躍する選手育成したい」

 聴覚障害者のオリンピック「デフリンピック」の卓球女子シングルスで、金メダルを獲得した舞鶴出身の上田萌さん(23)=日立化成所属=が帰郷し、このほど多々見良三市長に金メダルの報告をし、市優秀スポーツ賞・特別優秀賞を受けた。また、上田さんを応援してきた卓球関係の市民たちが祝賀会を開き、その偉業を讃えた。
 一条クラブで卓球を始め、日星高校などでも活躍した。前回2009年のデフリンピックはシングルスで銀だった。今回のブルガリア大会でシングルス金、ダブルス銀、団体銅を獲得した。
 上田さんや関係者が市役所を訪れ報告。会場となった体育館の床が悪くフットワークが使いにくい環境の中、これまで団体戦で3連敗していたロシア人選手に、シングルス決勝で対戦して勝ったこと、一方、オリンピックに比べデフリンピックは認知度が低く、選手は合宿や大会への参加を自費負担するなど支援が少ない現状も述べた。
 多々見市長は「金メダルおめでとう。市民は勇気をもらい、子供たちはスポーツに励むきっかけになった」と祝福した。
 上田さんは「金メダルを目標にこの4年間、サーブ後の攻撃などの課題を克服し節制するなど準備をしてきました。支えてもらったみなさんのおかげと感謝しています。将来は五輪で金メダルをとる選手を育てたい」と話した。
 夜には浜の勤労者福祉センター別館で、一条クラブと舞鶴卓球協会主催の祝賀会があり、約70人が出席した。同クラブの小畑喜生代表が上田さんの小学生時代、投げ上げサーブの練習を真剣に取り組んでいた様子を紹介し、「萌は100%全力で練習に打ち込める選手で、人一倍努力できる才能がある。金はとるべくしてとったメダル。これからもみんなで応援している」とスピーチした。
 同協会の松下繁会長は「小学生だった上田さんに、いいサーブができた時に手振りでグーと合図を送ると、うれしそうに返してくれた笑顔が印象的だった。こうしてみんなで祝賀会ができうれしい」と喜んでいた。

写真左=多々見市長から市スポーツ特別優秀賞を受ける上田さん
写真右=祝賀会で上田さんを讃える小畑さん



2013年8月20日












シリーズ・語り伝えるヒロシマA
父の行方捜し壊滅の街歩く
入市体験 姉妹にも語らず
変わり果てた人 異様なにおい… 地獄のような惨状

 8月4日の土曜日、いつもどおり父が疎開先に来た。この時、山田さんが伴われていた。下痢が続いたため一週間ほど前に父が広島市内の自宅に連れ帰り、赤十字病院で診察を受けていた。1日には山田さんは体調がよくなった旨を書き、母に速達の手紙で知らせた。医師の許可が出て疎開先に戻ることができた。「もし医者にもう来なくていいと言われなければ、広島市内で6日を迎えていた」。その手紙はいまも大切にしている。
 6日早朝、いつもより早く父は帰ることにした。この日に限って子供たちもみんな起き、生後5カ月の3女が父の首にしがみつき離れようとしない。自転車で市内へ向かう父。最後に見た姿だった。
 午前8時15分、爆心地から北北西15キロの戸山国民学校。登校した山田さんたちを大きな爆音と爆風が襲い、教室の窓ガラスも割れた。空が真っ黒になり、焼けた新聞などの紙切れが空から次々と落ちてくる。それらを拾っていると雨が降ってきた。大きな雨粒、ランニングシャツが真っ黒になった。数日後、頭がかゆくなり、手が黒くなるほど髪の毛が抜けた。
 7日になると市内から歩いて戻ってくる村人たちもいた。真っ黒に焼けた服、胸だけ、あるいは背中だけ丸裸、そして顔や手足にひどいやけどを負っている。その中に父を捜したがいない。
 数日後、母の志満(しま)さんが市内へ何度も父を捜しに出かけるようになった。そこで見た地獄のような惨状。その中を父を求め必死に歩く。爆心地から約1・5キロの大学に向かうと父の名前が書かれた自転車、使っていた茶碗を見つけた。顔にやけどを負ったと聞き、病院や収容所を訪ね歩いた。住友銀行の壁に別の場所に収容された父の名前があった。しかし、その場所に行くが見つからない。
 姉と妹を残し山田さんだけ一度、母に連れられ市内に入ったことがある。「便乗したトラックを降りた途端、異様なにおいで何度も吐いた」。手足が焼けただれずるむけになった人、「水を飲ますなー」と叫んで走り回っている兵隊、市電の線路には遺体だけでなく瀕死の人もずらりと並べられ、うじが湧いていた。筵を一枚一枚めくって父を捜した。夜は母と橋の袂で野宿をしたが、河原のあちこちで積み重ねられた遺体が一晩中焼かれ、遺骨が積み上げられていた。
 「被爆体験と父を捜しに行ったことを口外しないよう母からきつく言われた」。母と入市したことを姉妹に話せたのは、いまから10年前だった。(青木信明)

写真左=原爆で亡くなった父の貞之助さん
写真右=山田さんが8月1日広島市から疎開先の母へあてた手紙



日清カップ小学生陸上大会府予選
リレー男女そろって優勝

8月23、24日 日産スタジアム
走れ!チームの輪で全国大会
舞鶴ジュニアク 女子5人組

 8月23、24日に横浜市の日産スタジアムで開かれる「日清食品カップ第29回全国小学生陸上競技交流大会」に、舞Iジュニア陸上競技クラブ(松岡功代表)の女子400メートルリレーチームが出場する。同クラブから女子チームが全国大会に出場するのは初で、松岡代表や西舞鶴高校陸上部OB会「双鶴クラブ」のメンバーらの指導のもと、猛暑の中、練習に励んでいる。
 リレーチームは5人登録が大会ルールで、出場するのは、中筋小6年の布川真穂さん(12)、水島沙和子さん(12)、永野真菜さん(12)、足立莉歩さん(12)の4人と、朝来小6年の武野伶奈さん(11)。控え選手の武野さんはリレー競技とセットの「友好女子100メートルの部」で出場する。
 5人は、6月23日に西京極総合運動公園陸上競技場で行われた府予選で、56秒64の自己ベストを記録し、僅差で強豪の京都小学生陸上教室を破り初優勝。武野さんも友好女子100メートルで1位となり、全国への切符を掴んだ。
 同クラブには現在、小学2〜6年の男女58人が所属し、週に2日、西高グラウンドで練習を行っている。全国交流大会には過去に、100メートルと走り幅跳びで4人の選手が出場している。
 リレーチームの5人は「自己ベストを目指して、悔いのないよう精一杯の走りをしてきたい。バトンパスをうまく繋いで、予選通過を目指したい」と話していた。
 松岡代表は「自分たちだけでも練習を積んでいる。リレーに大切なチームの輪を持っている子たち。あと1秒05はタイムを縮められる力があるので、実力を発揮して予選を通過してほしい」と話していた。

写真=全国大会に出場する(前列左から)永野さん、布川さん、武野さん、(後列左から)水島さん、足立さんの5人



男子は倉梯第二小学校チーム
練習の成果 100%の走り

 日清食品カップ全国小学生陸上競技交流大会の京都府予選会で、倉梯第ニ小学校チームが、男子400メートルリレー競技で優勝した。
 リレーメンバーは全員6年生で、第1走者が平井宏樹君(11)、第2走者が西村耀君(同)、第3走者は浜本順一朗君(12)、第4走者は山下幸大君(同)。浜本君は野球を、他の3人はサッカーチームでスポーツをしている。
 このメンバーで春の舞鶴市内の大会で走り58秒7で倉梯小に敗れ、日清食品カップで悔しさを晴らそうと練習を積み重ねた。平井君はスタートの反応がよく、西村君は直線が速く、浜本君は足の回転が速くカーブに強く、山下君は直線を得意としている。
 決勝レースに残り、55秒48のタイムで優勝した。4人は「みんなが練習をがんばり100%の力が出せた」「タイムを伸ばそうと思ってのぞみました」「まさか1位になるとは思っていなかった。すごくうれしい」と話している。
 本選の全国大会にはメンバーが5人いないため出場を逃した。

写真=優勝した平井君、西村君、浜本君、山下君(左から)



2013年8月16日

シリーズ・語り伝えるヒロシマ@
原爆の日、毎年広島へ
山田達磨さん 父亡くし8歳で被爆

 模擬原爆の爆弾の標的となった舞鶴から、原爆が投下された広島へ、毎年8月6日、平和記念式典に参列している人がいる。山田達磨さん(77)=愛宕中町。原爆で父を亡くし、自らも被爆した。その体験に耳を傾け、今年68回目の原爆の日、広島に同行した。(青木信明)
 1年前の8月末、市役所1階ロビー。掲示板をじっと見つめる山田さんがいた。掲示されていたのは原爆供養塔納骨名簿だった。供養塔は広島市の平和記念公園にあり、身元の分からない遺骨などが納められている。その内、氏名が判明しても遺族がわからない遺骨の氏名が名簿に記されている。
 「知っている人の名前がないか捜している」。さらに聞くと自身も被爆者であり、毎年式典に参列していると教えてくれた。山田さんとは日星高校の教頭時代に知り合い、中国内モンゴルでの植林活動など多くのボランティア活動を通じて何度も話を聞いてきたが、被爆者であることを初めて知った。
 父の貞之助さんは綾部出身。仕事の関係で広島市に移り、4人の子供がここで生まれた。中心街にあった広島文理科大学(いまの広島大)でガラスの実験器具を製作する技官として働き、自宅は大学近くの中区宝町にあった。1945(昭和20)年春ごろ、一家は父だけが自宅に残ることを決め、市内から北へ少し離れた安佐郡戸山村(いまの安佐南区)へ自主的に疎開した。山田さんは国民小学校4年生の8歳だった。
 父は腕のいい技術者として知られ、舞鶴鎮守府長官も務めた東郷平八郎の遺髪を納めるガラス容器の製作依頼もあった。週末に職場から自転車で疎開先に行き、家族で過ごす日が続く。大学の畑で作った野菜などを土産にする父、一家が揃っての夕御飯を母と子供たちも朝から楽しみにしていた。
 ある土曜日の夜。もう父はこないのだろうと思っていると、ひょっこり姿を見せた。仕事が遅くなり行かないつもりだったが、配給された酒を飲みその勢いで来た。途中、バスをよけようとして自転車がひっくり返り崖へ落ち、片方の靴をなくしてしまった。翌朝見つかった靴を見るとぼろ靴。母は「チャップリンが映画でいつもはいているような靴」とみなで大笑いしたこともあった。  世界を一変させた8月6日が近づいていた。

写真=原爆投下の8時15分に合わせ、黙祷する山田さん(8月6日、広島市で)



上福井・柴田さんの果樹園
たわわなブルーベリー 食べごろですよ!
豊富な品種 試食しながら収穫を

 上福井の国道175号そばのブリーベリー園(10アール)で、たわわに実った果実が色づき収穫シーズンを迎えている。20品種100本が育ち、ブルーベリー狩りを楽しむことができる。
 近くの柴田清市さん(63)と静枝さん(59)が10年前から世話をする。酸性土壌の畑に適する作物としてブルーベリーを選び、苗木5本から始め今では高さ2メートルを超え、これだけの大きさと本数の規模の園は珍しいという。
 早生のハイブッシュ系と晩生のラビットアイ系がある。水やりと秋の剪定ぐらいで手間がかからず、農薬も使っていない。畑全体をネットで囲って鳥の侵入を防いでいる。実はピンクから赤、黒へと変化して色づく。甘酸っぱい味が広がる。
 自家用で食べていたが、多くの実がつき2009年から販売を始めた。来園者に1パック500グラムが入る容器に自分で摘み取り持ち帰ってもらう。入園料は不要だが1パックの料金は1,200円。土・日・祝祭日のみ営業している。
 柴田清市さんは「摘んだものを食べながら収穫をしてください。9月中旬ごろまで楽しめます」と話している。
【問い合わせ】電話090・7758・6621、柴田さん

写真=色づいた実と来園を呼びかける柴田さん



2013年8月9日

9戦全勝で念願の金メダル
上田さん デフリンピック・卓球女子シングルスで
中学からの夢 努力でつかむ

 日星高校と一条クラブ出身で、日立化成所属の上田萌選手(23)=茨城県日立市=が、ブルガリアで開かれた聴覚障害者のオリンピック「デフリンピック」の卓球女子シングルスで、9戦全勝の強さで念願の金メダルを獲得した。また、女子ダブルスで銀、国別対抗の女子団体で銅と前回大会を上回る活躍を見せた。舞鶴の卓球関係者や市民も祝福している。
 デフリンピックは4年に1度の大会。感音性難聴でほぼ両耳が聴こえない上田さんは、前回2009年の女子シングルスと団体で銀だった。今大会は7月26日〜8月4日の日程で開かれた。
 卓球女子シングルス予選リーグは5勝0敗で1位通過。決勝の1回戦は対韓国選手に4―1、準々決勝で強豪の中国選手に4―1、準決勝は対スロバキア選手に4―2、決勝は対ロシア選手に4―1と、9連勝で優勝した。
 女子ダブルスは佐藤理穂選手とのペアで出場し、決勝で中国ペアと対戦中、佐藤選手が足を痛め最後までプレーしたが、惜しくも4―2で敗れ準優勝。女子団体は3位決定戦でロシアに3―2で勝った。日本代表チームのメダルは金1、銀1、銅1で、上田さんが日本のエースとしてメダルをもたらした。
 上田さんは「4年前のデフリンピックでの落し物を今回拾うことができ良かった。支えて下さった会社の皆さん、家族、先生たち、仲間たち、本当にありがとうございました」と、日本ろうあ者卓球協会のホームページを通してコメントを寄せている。  5歳から指導してきた一条クラブ代表の小畑喜生さんの元には3日朝、「一条クラブの卓球がシングルス決勝で活きました。ありがとうございます」と優勝の報告がメールで入った。
 小畑さんは「ラリーをして最後に決める自分のスタイルを貫き、普段通りにプレーをとアドバイスを送ってきました。デフリンピックの金メダルは中学生のころからの萌の夢。努力してつかみとった金に、おめでとうと伝えたい」と話している。

写真=金メダルを手に笑顔の上田さん(中央):(一財)全日本ろうあ連盟提供














凧が届けた、夏空の音。
カイト・オーケストラ展示会
赤れんが4号棟で9月1日まで

 手作りの凧(カイト)を揚げ、凧糸にマイクを付けて夏空の音を聞く音楽ワークショップ「みんなでつくる カイト・オーケストラ」が8月3日、北吸の赤れんがパーク4号棟と、海上自衛隊造修補給所対岸の同パーク駐車場で行われた。小・中学生10人と保護者ら計21人が参加し、夏休みの凧揚げを空の音とともに楽しんだ。
 主催の舞I観光協会と、企画運営の一般社団法人torindo(トリンド)が、電子音楽などの制作や演奏を国内外で行うサウンド・アーティストのニシジマ・アツシさん(47)=京都市=を講師に招き開催した。
 参加者たちは、縦・横65センチのダイヤ凧を製作。凧に光があたると模様の影ができるように、緑や無色の透明ポリエチレンのシートを使い、型紙に合わせて切り、十字に組んだグラスファイバーの骨組に貼り合わせた。
 バランスよく飛ぶよう、凧をしならせる反り糸などを慎重に張り、震動音を鳴らすための紙と、高く飛ばすため約10メートルの尾を付け、スプレーで名前をペイントするなどして凧を完成させた。
 駐車場で揚げた凧は、海風に乗って雲の多い空へ舞い上がり、約100メートル上空まで揚がった凧もあった。凧糸にマイクを取り付けると、凧糸が弦の役割をして空の音を引き込み、ギターアンプからスピーカーに音が飛ばされて、ピューという笛のような甲高い音や、飛行機が飛んでいるような音など、凧や風の状態によって変化する夏空の音色が駐車場に響き渡った。
 池内小4年の南このかさんは「あんなに高く揚がるとは思わなかった。風なのに変わった音もしてびっくりした」と話していた。
 録音された夏空の音は組み合わされてオーケストラとなり、16個の凧と、当日の様子の映像とともに、4号棟2階に9月1日まで展示中。午前10時〜午後5時。無料。

写真左=凧糸にマイクを付けてアンプで拾うニシジマさんと凧揚げをする小学生
写真右=ワークショップで作った凧が扇風機の風を浴び、夏空の音が涼をかもし出す展示会場



2013年8月6日

京都生協小野田さん 報告会
ラオス少数民族の子ら支援を
ユニセフの教育援助 生協が募金で協力
就学前プロジェクトの重要性を実感

 世界の子供たちの教育などを支援する国連機関のユニセフ(国際連合児童基金)の活動に、京都生協が継続的に協力している。支援先であるラオスを視察した同生協京都東ブロック会員の小野田恭子さんが、このほど余部下の中総合会館でその取り組みを報告。約60人の親子たちが、ラオスの少数民族の子供たちや暮らしなどの様子を聞いた。
 ユニセフは子供たちの命と健康を守るため、世界190以上の国と地域で活動している。その資金は団体や政府などの募金で賄われている。京都生協は1989年からユニセフに参加し、90年からラオスの支援を続けている。お年玉募金を生協会員に呼びかけ、2012年度は300万円を贈った。
 実際に募金がどのように使われているのかを視察する今年2月のスタディツアーに、小野田さんが派遣された。京都生協舞鶴エリア会(鎌部千津子リーダー)が、小野田さんを招き夏休み中の子供や親たちに聞いてもらった。
 ラオスは山岳地帯に囲まれ、多民族からなる国家。少数民族が暮らす最北端のナノイ村などを巡った。それぞれの民族は言葉が全く異なり理解できず、小学校に入ると共通語のラオ語のみで授業が行われるため、入学しても勉強についていけず辞めてしまう子も多いという。
 そのため小学校入学前にラオ語を教える就学前プロジェクトが、ユニセフの支援で始まった。教材や教師も不足しており、教員の研修なども協力する。
 小野田さんは「就学前プロジェクトが、子供たちにとって大切な教育の場になっており、継続した支援の重要性を実感しました」と伝え、民族衣装や食事なども紹介した。

写真=子供たちにラオスの様子を話す小野田さん(左)



東舞鶴高校 体験セミナー
新制服でイメージチェンジ!
中学3年生に学校をアピール

 泉源寺の東舞鶴高校(竹内浩校長)で8月2日、中学3年生を対象にした体験セミナーがあり、来春からリニューアルされる制服が披露されるなどした。
 新デザインは男女ともブレザーとネクタイスタイル。胸には学校からも見える青葉山と鶴をイメージしたオリジナルエンブレムが付く。女子のスカートは英国キルトメーカー「キンロックアンダーソン社」の、世界に1つだけの東高オリジナル版のチェック柄になっている。
 この日、参加した市内や綾部などの中学生約170人に、先輩高校生たちが充実したクラブ活動の体験、自転車がパンクしても先生が修理してくれるエピソードを披露し、学校をアピール。小谷潔教諭が「人なつっこい生徒が多く、にぎやかに行事に取り組んでいる」と学校生活を説明した。
 授業体験では、地理の科目でiPadを使って日本地図に正しい都道府県をあてはめることに挑戦した。
 東高は2年連続で定員割れが続き、進学率でも西高に水をあけられている。そのため英語教育の充実などを計画し、学校をPRする「チェンジ東舞(とうまい)」活動を展開。授業やクラブ、進学、就職の進路などを紹介した冊子、ポスターなどを作成し配布している。

写真=ブレザーの新制服を見る中学3年生たち



2013年8月2日

瀬崎の海と山に根ざして
渡邉さん夫婦「人とつながる場に」 小さな店オープン
無農薬の自家焙煎コーヒーと
地元産素材を使ったタイ料理

 若狭湾に面した大浦半島の小さな集落の瀬崎地区で、自家焙煎のコーヒーと地元の素材を使ったタイ料理の店が今月、オープンした。店名は「Fon Din(フォン・ディン)」。タイ語で「雨と土」を意味する。渡邉直樹さん(38)と恭子さん夫妻が、畑や手仕事をする暮らしを大切にしつつ、飲食を通して人との出会いを生む場にと始めた。
 直樹さんは静岡市出身。沖縄や北海道などの農家でアルバイトをして資金を貯め、リュック一つでアジア各地を旅するバックパッカーだった。日本では失われた懐かしい暮らしぶりが残るタイが気に入り、何度も訪れ現地の料理と語学も勉強した。恭子さんは京都市出身で祖父母の家が瀬崎にあり、子供のころ海水浴や盆の墓参りで瀬崎を訪れた思い出がある。
 日本に戻った直樹さんは、耕やさない自然農で作物を作る友人の元で仕事を手伝い、農をベースにした生活ができればと考えた。友人を通して出会った恭子さんも、農業と機織の手仕事を大切にする暮らしを描いていた。
 京都市内で仕事をしながら2人は、瀬崎に通って畑を作り地元の人と親しくなった。昨年秋に瀬崎へ引越し、民家の厨房を改修するなど店の準備を進めた。
 店は木造2階建て。1階の8畳2間の和室が店舗スペース、2階はギャラリーとして利用する。しっかりとした苦味とコクのある東ティモール産と、やさしい甘味と香りのあるラオス産の無農薬の豆を自家焙煎したコーヒー(350円)を提供する。
 タイ料理は瀬崎や舞鶴などの魚、無農薬野菜、とり肉など安全な素材を使って調理する。米粉めんを使った焼きそば「パッタイ」、蒸しとりごはんの「カオマンガイ」、スープなどがある。ランチは1,000円、飲み物とデザートを合わせると1,500円。
 直樹さんは「海と山のある瀬崎に腰をすえて、自然のリズムに合わせ生活に根ざした活動をしていければ」、恭子さんは「コーヒーや食事をゆっくりとりながら、いろんな人とつながりあえる場にしたい」と話す。
 営業は木〜日曜の午前11時半〜午後5時半。ランチは1日10食までで前日までに予約を。
【問い合わせ】電話60・2063、同店

写真=民家を活用した店と渡邉さん



舞鶴ボーイズクラブ出身
夏の甲子園出場つかむ
木村選手 福知山成美高5番で活躍

 城北中学校・舞鶴ボーイズクラブ出身の福知山成美高校野球部の2年生、木村典嗣(のりつぐ)選手(17)=大内=が、京都大会に5番・レフトで先発出場して活躍し、5年ぶり4回目の夏の甲子園出場に貢献した。舞鶴の野球関係者からも応援を受け、夢の舞台で全力プレーを誓った。8月8日に開幕する。
 木村選手は左打ちの右投げ。硬式野球の同クラブで3年間プレー、足の速さと長打力を活かし、1番や3番を打った。サードなど内野を守った。地元の高校など迷った末、成美に進学した。
 新チームが結成された1年生秋から2番・レフトで公式戦に出場する機会を得た。今夏の京都大会では二桁の背番号をつけるが、2回戦から決勝まで先発出場し、主軸の打順を任された。
 準々決勝までの4試合で打率は6割を超え、通算では4割5分と好調で、決勝でもヒットを放ち得点し、チームの快進撃を支えた。得意の足でも今大会4盗塁を記録。10―4で勝った東山戦は、3度先頭打者として打席に立ち全て出塁してチャンスを作った。
 出場報告をした同クラブの山林明雄監督から「楽しんでこい」と励ましを受けた。木村選手は「このメンバーでの大会は最後なので甲子園に出られることはうれしい。甲子園では元気で楽しくプレーし、まず1勝して校歌を歌いたい」と話す。

写真=「甲子園では元気で楽しくプレーしたい」と話す木村選手



成美9(ナイン)に声援を!

 成美高は応援のバスを出す。受付はバス手配センター(電話0773・25・5525、8月5日までは午後6時〜同8時、同6日以降は午前10時〜午後4時)。寄付も募っている(個別に家庭を訪問しての寄付の依頼はしない)。口座は京都北都信用金庫岡ノ町支店(普)1000001。窓口からの振込みを。




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