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2015年3月31日

京夏みかんたわわに実って
市民と地元住民 神崎などで苗木100本植える
需要に応えて 耕作放棄地利用

 神崎地区などで実る夏みかんを地域の特産品にしようと、市民でつくる「舞鶴夏みかんの会」(村上貴是代表)が、西神崎と宮津由良地区の耕作放棄地などで、このほど苗木100本を植えた。地元住民も畑を貸すなどして協力しており、「京夏みかん」の愛称を名付けた市民らは今後も取り組みの輪を広げていきたいとする。
 夏みかんの産地である山口県萩から、約130年前の明治期に北前船で神崎などに運ばれ、栽培が始まったとされる。昭和30〜40年代に需要のピークを迎えたが、次第に甘い果物に嗜好が移ると、木は放置や伐採されるようになった。神崎でもいまでは43本が残るのみとなっている。
 神崎でスカイレジャーを楽しみ、地域の活性化に取り組む村上さん(67)=女布=らが、自家用に消費されるだけだった夏みかんに注目し、ボランティアで剪定や収穫、売り込みなどに奔走した。
 京都市内の菓子店や料理屋、神戸市の惣菜店などを訪れると、その酸味が夏の清涼感として受け、新しい料理やお菓子に加工され人気になっていることがわかった。神崎の夏みかんも高い評価を受け、昨年は4400個を出荷したが注文に追いつかなかった。
 そのため需要増に対応しようと、明治期以来となる苗木の植樹を計画。久留米市から購入し、メンバー7人で神崎9カ所と由良地区に50本ずつ植えた。今後は草刈りや水やりなどの世話を続け、5、6年後に出荷ができるようになる。
 自分の畑に12本を植えた西神崎の竹内宏和さん(70)は「神崎の活性化に一生懸命されており、地元の理解も深まっていくだろう」と作業をした。村上さんは「専門店で市場性が高い果物だと感じた。来年以降も植樹を続け地域の特産品にしたい」と話している。手伝ってくれるメンバーを募っている。
【問い合わせ】電話82・5115、竹内酒店


写真=西神崎の畑で苗木を植えた市民たち











手作り品販売と初の作品展
市シルバー人材センター会員ら

 市シルバー人材センターの会員たちが3月26日、溝尻の事務所前広場で自分たちの手作り品を販売する「ふれあいショップ」を開いた。同日から29日には事務所2階の勤労者福祉センターホールで、会員の同好会と、会員が講師を務める講座の生徒たちの作品展が初めて行われ、多くの人でにぎわった。
 同センターは昨年9月に浜から旧市民病院南棟に移転。浜で週1回行っていたショップは、移転後昨年12月末に初めて同所で開催し、ダイコン炊きを行うなど盛況だった。野菜の収穫が少ない1、2月は開催を見送り、福祉センターで市民らの教室が多く開かれる木曜日を選び、再び開催した。今後も毎月第4木曜に開催する。
 この日は15人の会員が、自家栽培のホウレンソウや小松菜などの野菜、ビオラなどの花の苗、桜、つくしの束、ハッサク、手作りの竹ぼうき、パウンドケーキなどを20円〜500円で販売し、朝から多くの人が訪れた。
 作品展は、移転後に同ホールなどの展示スペースができたことから、今回初めて開催された。絵手紙と書道の同好会、着物リフォーム、アートフラワー、子ども絵画教室などの生徒計約50人の作品200点が展示され、多くの人が見入っていた。
 谷口慧子さんが7年前から講師を務める着物リフォーム講座の展示では、着物の柄を活かすため、囲み製図で作られた洋服、かばんなどが並び、一部販売も行われた。


写真左=毎月第4木曜に開催する「ふれあいショップ」
写真右=勤労者福祉センターで行われた初の作品展


2015年3月27日













原発事故で故郷なくし
浪江町出身 西方寺平の泉さん、甥の悔しさ重ね米づくり
兄一家、離散し避難生活

 福島第1原発事故の影響が続く福島県。避難者は約11万9000人にものぼる。西方寺平で農業を営む泉金雄さん(64)は、原発から10キロ圏内にある浪江町請戸(うけど)で18歳まで暮らした。実家を津波で流されただけでなく、いまも避難を余儀なくされる米農家の兄一家は事故で農地を奪われ、県内の他市でバラバラになって生活を送る。
 原発に隣接する浪江町は帰還困難区域などに指定され、全域に避難指示が出ているため、約2万人の町民が全国46都道府県に避難し暮らす。町役場は県内の二本松市に仮庁舎を置き、町の復興を模索する。
 請戸の魚市場そばに実家がある。長男である兄が実家の農業を継ぎ、その後は兄の息子が20町の田を耕作してきた。いま請戸地区は避難指示解除準備区域となり、一時帰宅はできるが宿泊もできず、住民の帰還のめどもたっていない。そのため兄夫婦は福島市の仮設住宅で、息子の家族はいわき市で避難生活を送る。三男の兄夫婦が津波で亡くなった。
 一時帰宅の許可が出た昨年3月、実家を訪れた。道路は片付けられていたが、周囲のがれきは手がつけられておらず、震災当時のままで、原発事故の影響で復旧が進んでいない様子を実感した。自宅は土台の跡と壊れた自家用車が残るだけだった。
 兄たちに毎月、自作の米を送っているが、農地を汚され米づくりができない甥の悔しさを、安全な食べ物を作ろうと農業を始めた自らに重ねている。「兄たちは孫が学校に上がるため、いつまでも仮設にはおられないと、故郷に戻らず今年中に県北部の新地町で新しい生活を始めるようだ」という。
 福島第1原発で続く汚染水漏れと情報隠し、そして近隣の高浜原発再稼働に向けたニュースを聞くたびに、泉さんは「事故の教訓が活かされていないのでは」と感じている。
 「どうしてそこまでして情報を隠さなきゃいけないのか。原発災害は自然災害と違ってすぐに復興できるわけじゃない。避難が難しいことは今回の事故で明らかになったのに」とやりきれなさを抱えながら、舞鶴の地で土に向き合っている。


写真左=「事故の教訓を活かして」と話す泉さん
写真右=津波に流された浪江町の実家跡。2011年8月に撮影されたが、昨年訪れた時も同じ状況だった(泉さん提供)


被災地・宮城県岩沼市から入学
決意新たにふるさとで看護師を
小野寺さん 日星看護科3年修了

 上安久の日星高校看護科5年課程の3年生35人が3月21日、修了式を迎えた。震災の被災地である宮城県岩沼市から入学した小野寺泰世(たより)さん(18)も修了証書を手にし、ホームステイでお世話になる市民たちにお礼を述べた。4月からより専門的な講義が始まるが、ふるさとで看護師になる決意を新たにしている。
 岩沼市は津波で市域の約50%が浸水し、約200人が亡くなった。市職員で保健師の母、由紀子さんから震災直後に被災者を救助した看護師の体験を聞いたのをきっかけに、地元の高校に合格していたが、被災地出身の生徒を支援する制度を作った日星高へ入学を決めた。
 同高生徒たちは被災地に出向きボランティア活動などを継続しているが、小野寺さんも13年夏に南三陸町でがれき撤去を手伝い、昨年の夏休みに岩沼市に戻った時には児童館で子供たちと交流する活動をした。毎月1度の寮からの一斉帰宅日には、市民に招かれホームステイを体験している。
 修了式は高校3年間の課程を終えた区切りになっている。小野寺さんは「看護実習では患者さんにとって何が必要かを考えるのが難しく、これからが始まりだと思います。被災地では建物の復興が進んでも心のケアが必要だと聞き、患者さんと信頼関係を築き笑顔を取り戻してもらえるような看護師を目指したい」と話している。
 ホームステイを引き受けたs静枝さんは「自宅から遠く離れて生活することはがまんすることも多いと思う。人の気持ちのわかる看護師になってくれることを楽しみにしています」、由紀子さんは「みなさんに泰世がお世話になっていることが、復興の途中にある町で仕事を頑張ることができる私の原動力になっています。心から感謝しています」と話し、口数の少ない娘が自分の思いをしっかり伝える成長ぶりを喜んでいた。
 岩沼市では集団移転が県内で最も早く始まったが、家族を亡くした人の心はまだまだ癒えず、うつで苦しむ人も多く心のケアが課題になっている。他県からの応援職員50人がいまも同市役所で働くが、医療スタッフの不足が続く。


写真=ホームステイ先の市民たちにお礼を述べる小野寺さん(左から2人目)


2015年3月24日

老朽化実物で実習に効果
高専社会基盤メンテナンス教育センター 開設1年
技術者たち維持管理学ぶ
早期発見し、対策可能に

 白屋の舞鶴高専の社会基盤メンテナンス教育センター(iMec)が、開設から1年を迎えた。橋などのインフラの維持管理の技術を専門的に学ぶ場として、企業や自治体の技術職員、学生たち115人を受け入れてきた。老朽化した多数の橋脚などを各地から収集して展示しており、様々な損傷の具体例を見ることができる施設として高い評価を受ける。
 高度経済成長期に建設された橋やトンネルなどの社会インフラの老朽化が全国的に進み、時には大事故につながっている。改修や建て替えには多額の費用がかかり、その対策に自治体は頭を悩ませている。舞鶴市内にも戦時中に造られた古い橋が多いとされる。
 維持管理でインフラを守るため、技術者を育成する同センターを設立。1930年に大阪市内で造られたコンクリート製の橋や鋼材、融雪剤による塩害を受けた橋、最近では雪崩で損傷した岐阜県内の橋、由良川に架かっていた福知山市の大雲橋歩道橋の一部など、撤去された35点を展示している。これまでは川の上にあったり、橋の下に隠れて目にできない部分を見ることができる。
 2日間の基礎コースで、受講者たちはこれらの構造物の損傷を見て回りデジタルカメラで撮影し、損傷カ所について塩害、疲労、凍害などの原因を発表。続いて同センター長の玉田和也教授が展示物を示しながら劣化について解説し、ハンマーを使っての打音検査などの実習体験、補強技術の説明の座学などを受ける。
 市内外の民間企業、近隣自治体、和歌山や福島、熊本などの高専から受講し、14回の基礎コースを行なった。兵庫県測量設計業協会の上野省吾さん(38)は「解体しないと見ることができないような構造物の劣化の実物を見て触れることができ、知識が広がり今後の補強に活かせる」と実習に臨んだ。
 玉田教授は「実際に劣化した構造物を一カ所に集めているところはない。様々な原因を知ることで早く損傷に気づき対策をとることができる」と話していた。
 今後も劣化モデルを充実させ、応用編コースのカリキュラムの開発をする。4月からの新年度は20回の講習会が行なわれる。


写真=玉田教授(右端)から橋の老朽化の説明を受ける技術者たち


バザールタウン舞鶴
免税カウンター開設
外国人観光客増加に対応
食品売り場も改装

 伊佐津のショッピングセンター「バザールタウン舞鶴」(田中守店長)は、最近増えているクルーズ船の乗客に対応しようと、外国人観光客向けの免税カウンターを開設した。同社の70店舗で免税店は初めて。
 外国クルーズ船の舞鶴西港への寄港に伴い、市内で観光する外国人乗客が増えてきた。同店でも買物などに訪れる人も見かけるようになってきた。今年も今月から9月まで8回の寄港が予定されている。
 店舗入口に免税の対象商品や売り場コーナーなどの説明を英語、韓国語、中国語など4カ国語で書いた紙と専用の買い物かごを置いている。レジで精算した後、免税カウンターで商品とパスポートを持参し、電化製品などの一般物品、食料品などの消耗品などに分け、消費税が免税される。レジでは中国の銀行カードによる支払いもできるようにした。
 このほか食品売り場の改装もした。惣菜コーナーは24種類の和洋の惣菜から、好みの量を自分でとることができるバイキング方式にし、スタッフが料理の提案や試食を提供しレシピも備え付けたクッキングカウンターも設けた。
 また、サービスカウンター前にはシックな内装のカフェコーナーを作り、店内で購入した商品を食べることができる。


写真=新たに設けられた免税カウンター


2015年3月20日












はせやまん給食おいしいよ!
新舞鶴小 イメージキャラで5品考案
勇気、やる気、元気をメニューに
児童らのアイデア盛り込み

 溝尻の新舞鶴小学校(森信憲司校長、児童596人)で、同校のキャラクター「はせやまん」をイメージした給食メニューが完成し、3月16日に初めて提供された。はせやまんの特徴である「勇気の星」などにちなみ、星型をしたニンジンや長谷山を模したそぼろ丼など、児童や保護者たちから募集したアイデアをメニューに取り入れた。
 校舎の改築を記念してキャラクターデザインを児童から公募、昨年2月に誕生した。学校近くの長谷山からイメージして山の姿をし、頭には「やる気の実」を載せ、腰には学校横を流れる祖母谷川を模したベルトに「勇気の星」を付け、「元気スマイル」の表情。
 こうした3つのキーワードを元に、児童から募った歌詞で、保護者が作曲したキャラクターソングも完成させ、昨年11月にPTAらが合唱で披露した。キャラクターは学校便りなどに使われており、いまでは掃除や勉強中など37パターンのデザインがある。  親しまれているはせやまんを給食で表現し、思い出に残してもらおうと初めて給食メニューを募集。児童や保護者、教職員から84通の提案があり、栄養教諭がそれらを組み合わせ5品の献立を作った。
 「元気になるはせやま丼」は豚肉を使ったそぼろ丼で、はせやまんの黄色を卵で表した。頭に似ているブロッコリーを使った「やる気が出るサラダ」、やる気の実はイチゴに置きかえた。米でできたベトナムの麺「フォー」で祖母谷川をイメージした「勇気の星入りさらさらスープ」を作った。
 この日、児童たちはイメージソングの歌を聞きながら、おいしそうに頬張っていた。2年生の白井優花さんと今井駿君は「勇気の星をいっぱい食べたので勇気が出てくると思います。また食べたいです」「そぼろ丼がとてもおいしく、苦手なブロッコリーもごまの味付けでおいしい。はせやまんは近くの川と山がイメージしてあり大好き」と話していた。


写真左=イメージキャラクター「はせやまん」
写真中=そぼろ丼などを食べる2年生たち
写真右=はせやまん給食


聖母の小さな学校
自分見つめ卒業・進級
不登校の生徒たち 4月から次のステップへ

 不登校の児童生徒のためのフリースクール「聖母の小さな学校」=上安=で3月14日、卒業式と進級式が行なわれた。自分と向き合う中で人と関わる力を見につけた生徒たちが次のステップに踏み出し、関係者たちが祝った。
 学校に行けない小・中・高校生を受け入れ、学校教員や市民ボランティアも協力し、様々な授業や体験を重視した行事も行い、いまの自分を見つめる。これまで約200人が同校を巣立ち、高校や大学に進学、社会人になっている。
 今年度は約2年間聖母に通った中学生1人が卒業、中・高生の2人が進級した。また、昨年度聖母を卒業した高校1年生がこの1年間、力をつけるため聖母に通い、この3月で聖母を離れる。最初は聖母への通学も苦しかったが、次第に雨や雪の日も自転車で通えるようになり、自分の考えも言えるようになった。
 支援者たちが見守った式典では、梅澤秀明代表が「ここが楽しいと思えるようになった時が聖母での卒業です。不登校の自分を認めることができなかった時期を経て、いまでは自分を受け入れ仲間や先生を信頼することができるようになりました。聖母で学んだことを忘れず4月から社会に向け進んでほしい」と述べ、卒業の色紙を贈った。
 生徒たちは「人として大切なことを学んだ」「自分の課題が見つかり聖母に来てよかった」と振り返った。


写真=関係者たちが見守った卒業と進級式


2015年3月17日

7歳の棋士の卵 囲碁に夢中
西まいづる囲碁クラブ 中筋小1年の上林澪さん
毎日通い対局 9級の棋力に

 中筋小学校1年の上林澪(みお)さん(7)=公文名=が、舞鶴囲碁協会理事長の新妻四郎さんが席主を務める伊佐津の西まいづる囲碁クラブ(会員60人)に、現在唯一の小学生として、昨年6月からほぼ毎日通い、囲碁に夢中で取り組んでいる。60〜70代の常連会員たちに可愛がられるアイドル的存在で、何よりも囲碁が好きという上林さんは「私は棋士の卵!」と宣言し、対局で日々腕をみがいている。
 父の浩司さん(31)が、同クラブ出身で日本棋院関西総本部の院生としてプロを目指す高校1年の高山辺楓実さん=宮津市=の父と同じ職場で、娘の澪さんにも囲碁を勧めてみたところ、幼稚園年長で興味を抱いたという。
 最初は縦横4本線の4路盤の碁盤から始め、経験のない浩司さんも覚えて相手をしていた。小学生になり同クラブの近所に引っ越したのを機に6歳から通い始め、新妻さんや妻の洋子さんらが9路盤から指導し、13路盤へと段階を踏み、2カ月で正式な19路盤での対局ができるようになった。平日は約1時間、休日は約5時間通い、西市民プラザで洋子さんが講師を務める女性限定の「遊碁会」にも参加している。
 始めた頃は負けるたびに泣いていたが、本を何冊も見てプロが打った手を並べたり、囲碁に必要な定石を覚える努力を続け、集中力も付き自信を持って打てるようになった。会員たちにも物おじせず、「指導お願いします」と礼儀正しく対局を挑み、今では新妻さんから9級の棋力と認められている。新妻さんは「子供の時に囲碁を始めることが何よりすごい。プロはみんな5、6歳から始めており、将来有望」と期待を寄せている。
 浩司さんが大会への出場をサポートし、昨年12月に初めて出場した京都市の子供囲碁大会では小学6年の男子に勝利。今年の京都女性囲碁大会では大人相手に3勝し、今月7日には大阪ジュニア本因坊戦関西大会で小学3年の女子に1勝して公式10級の認定を受けた。浩司さんは「ここまで興味を持つとは思わなかった。自分から大会に出たがるので、無理はさせず応援したい」と見守っている。
 幼稚園の弟にも教えているという上林さんは「碁石を取ること、勝つことがおもしろい。プロになりたい」と目を輝かせていた。


写真=席主の新妻さんと対局する上林さん


ギャラリー・サンムーン チャリティー作品展
被災者の悲しみ、いまも
大室さん 福島などの現状報告

 福島など被災地の仮設住宅で支援活動をする東舞鶴高校出身のNPO法人職員、大室和也さん(31)の現地報告が、東日本大震災の発生した3月11日、浜のギャラリー・サンムーンであった。震災から4年が経つが、家族を亡くした悲しみはいまも消えず、今後の生活の見通しがつかないことへの不安を抱える被災者の現実を伝えた。
 被災地を支援するチャリティー作品展の一環として開催。箏アンサンブル斗為巾の演奏会も行われ、作品とコンサートの収益金27万8,905円を同法人を通して被災地に送った。
 理学療法士の大室さんは、南相馬市や大船渡市などの仮設住宅を11年7月から訪れ、話を聞きながら体をほぐすマッサージを続ける。
 夫が津波で行方不明となり見つかるまで仮設住宅を離れようとしない女性、定年後東京から福島に移ったが原発事故で全てを失い、「わしの人生、何だったんだ」といまも眠れないという男性らの体験を語り、「私たちには聞くことしかできないが、帰るときには被災者は笑顔になってくれるので続けている」と述べた。
 また、市民に出来る支援として寄付や募金活動、使わないものを送るなどを紹介した。


写真=仮設住宅で暮らす住民の声を伝える大室さん(ギャラリー・サンムーンで)


2015年3月13日












神崎ホフマン窯に関心を
文化教育財団 冊子を作成
全国に4基 れんが建造物建設に貢献
修復保存終え、経過や写真を掲載

 西神崎にある神崎ホフマン窯の修復保存を行なった森町の公益財団法人舞鶴文化教育財団(高橋照理事長)は、ホフマン窯の歴史や修復工事の概要と完成写真などを掲載した冊子(A4版、32ページ)を作成した。舞鶴のれんが建造物の建設に貢献した貴重な窯を知ってもらえるよう、冊子を活用したいとする。
 1897(明治30)年に登り窯として建造され、舞鶴軍港の建設に伴って倉庫の建材に使うれんがを製造。大正末期に楕円形型のホフマン窯に改良された。1958(昭和33)年ごろに製造を中止した。現在、ホフマン窯は全国に4基しか残っていない。国の登録有形文化財、近代化産業遺産になっている。
 競売で入札し所有者となった同財団が、長年の風雨で倒壊の危険があったことから、有識者らによる検討委員会を設け、調査や修復計画を進めてきた。12年に工事に着工し、約8200万円をかけ13年に完成させた。
 窯全体を覆う素屋根を設け、焼成室内部が見学できるように外側壁の一部を積み直し、目地を注入するなどして補強した。高さ約24メートルの主煙突はひびが入っていたため、上半分を切り取って降ろし修復をいまも続けている。
 2000部作った冊子にはこうした窯の歴史的役割、稼働していた当時の写真、保存工事の経過と完成後の写真などを多数載せた。数十部を関係者や地元住民らに無料配布した。今後も文化財関係者の視察やふるさと学習などの機会に利用していく。
 高橋理事長(85)は「協力していただた方たちへのお礼と報告として冊子を作りました。これを機に多くの人に神崎ホフマン窯へ関心を高めてもらい、今後の活用に市民の声を聞かせてほしい」と話していた。
 将来的な一般公開に向けて休憩所やトイレ、周辺などの整備とその後の運営管理、観光振興にどう活かすかなどの検討課題がある。冊子の問い合わせは同財団(電話62・0577)。


写真左=冊子と高橋理事長
写真右=素屋根で覆われ工事を終えた窯(冊子より)













「藤の音」 ピアノと声楽披露
元海自舞鶴音楽隊の 芳賀さんも出演
被災者の悲しみを表現

 ピアノと声楽を指導する藤原眞紀子さん(62)=北吸=の教室生らが出演する「第32回藤の音コンサート」が、3月22日午後1時から北吸の市政記念館で開催される。今年は元海上自衛隊舞鶴音楽隊のアルト・サクソフォン奏者、芳賀忠一さん(64)=北浜町=も出演する。入場無料。
 藤原さんは昨年のコンサート後に脳梗塞を患って1カ月入院し、リハビリに励んでいたため、友人の芳賀さんがコンサートへの出演を申し出た。藤原さんはピアノが弾けるまでに回復し、今年も教室生と一緒に演奏を披露する。
 芳賀さんは、1968年から2004年まで舞鶴音楽隊に勤務し、現在は市内の介護施設などでボランティア演奏をしている。コンサートでは、鹿田美帆さんのピアノ伴奏で、カッチーニ、バッハ、シューベルト作曲の「アベ・マリア」3曲のメドレーなどを披露する。出演は午後2時から。
 教室生の発表では、26年間教室に通う岩坂幸子さんをはじめ、3〜33歳の8人が、ピアノ演奏で「テンペスト3楽章」や「宿命」、声楽で「花は咲く」、「さくら」などを披露する。3〜5歳の子供たちがユーフォニウムの演奏などに合わせ歌声を披露するコーナーもあり、最後は全員で、藤原さんの心の支えとなった曲「Believe」を合唱する。


写真左=出演する教室生を指導する藤原さん
写真右=アルト・サクソフォン奏者の芳賀さん


2015年3月10日

命の防災教育 被災地から
震災からまもなく4年 名取市の佐竹さん報告
日星高、幼稚園再建を支援

 東日本大震災から4年を前に、被災地支援を続ける上安久の日星高校で3月6日、3・11のつどいが開かれた。生徒たちは何度も募金活動を行い、宮城県名取市の幼稚園再建に役立ててきた。昨年再建された美田(みた)園わかば幼稚園の佐竹悦子園長(63)が訪れ、生徒たちにお礼を述べるとともに、いま現地で命を守る防災教育に力を入れていることを話した。
 海岸部の閖上(ゆりあげ)地区は800人以上の死者と行方不明者がいた。私立閖上幼稚園は園児4人と教諭1人が亡くなった。生徒たちは市民らの協力を得て約70万円の募金を再建費用にと届けた。閖上地区から美田園地区に移転し、美田園わかば幼稚園と変更して昨年春再スタートを切った。
 震災当時、市立閖上保育所の所長だった佐竹さんは、昨年1月に続いて来校。以前から津波被害を危惧し、職員たちとすでにある避難マニュアルを見直し、避難経路などを検討した上で、当日は@逃げるA車で移動するB閖上小学校に避難する、と3つを指示し、5台の車に54人の子供を分乗させ、無事避難させた。「あと2分判断が遅ければ渋滞で車を動かすことができなかった」と振り返る。
 その後、子供たちは大人に甘えられず、がまんをしてストレスを抱えていたため、心のケアをする取り組みをした。また、市民らと防災教育の市民グループ「ゆりあげかもめ」を立ち上げ、3月末で同園の退職後も、災害時の非常食づくりや学習会、震災の語り部活動などを続けていく。
 佐竹さんは「いま自分たちはどんな場所に暮らしているのか、気付くことが命を守ることにつながる。自分たちに何ができるか、これからも考えてほしい」と語った。
 募金4万円を手渡した生徒会副会長の安田那津美さん(2年)は「命の尊さを身にしみて感じました。だれかのために行動できる気持ちを大切に、生徒会にできることでお手伝いしていきたい」と話していた。


写真=命を守る活動について話す佐竹さん


メガネの和諧堂で3月30日まで
瀬野清さん絵画展
被災者の悲しみを表現

 円満寺のメガネの和諧堂で、東日本大震災をテーマに描いた、元美術教師の瀬野清さん(65)=白浜台=の絵画展が開催されている。油絵や混合技法などで被災者の「悲しみ」を表現し、サロン・ドトーヌ展などフランスの多くの展覧会で賞を受けた。3月30日まで。
 三重県生まれの瀬野さんは、1972年から37年間、青葉中、城南中、城北中で美術を教えていた。退職した2009年から本格的に創作活動を始め、11年の震災後、被災地の宮城県東松島市、福島県いわき市、南相馬市を4回訪れた。
 絵画展では、遺体が安置されていた小学校の体育館や、津波被害を受けて枯れたまま立つ冬のひまわり、潰れたままのポンプ小屋、原発事故で不安な表情を浮かべる住民、抽象的に表現された土葬の様子など、29点が展示されている。パリの国際公募展では「感動をよびさます作品とは、最大限の慎みを保ちつつ、人の痛みを表現する」と評価された。
 瀬野さんは「被災地をまのあたりにして表現し、震災と向き合わなければ次に進めない思いで描いた」と話している。
 午前10時から午後7時。火曜定休。
【問い合わせ】電話75・1208、和諧堂


写真=東日本大震災をテーマにした絵画と瀬野さん


2015年3月6日










幻の舞鶴カブ復活へ
新規就農の稲葉悠さん
「育種家増やし、届けたい」
前田さんから株譲り受け種採取

 京の伝統野菜である舞鶴カブ。市内の喜多地区が原産地とされるが、いつのまにか栽培が途絶えたとされる。しかし、株を手に入れ種を採り栽培を始めた人がいる。有機無農薬農業を目指して舞鶴で新規就農した稲葉悠(はるか)さん(32)=上漆原。今年は種子用にさらに多くの株を育てており、地元の種苗店と協力し本格的な復活を目指したいとする。
 舞鶴カブは円錐形をしており、土から出た部分は赤紫色。耐寒性があり、1〜2月に甘味が出る。野生種に近いため風味が強く、味が濃い。喜多から府北部一帯に広がったらしい。京都府農林センター(亀岡市)によると、その来歴や栽培などに関して、詳細は不明とする。
 最初は栽培地の地名をとって「喜多カブ」と言われていたが、円満寺の荒川種苗が昭和20年代に「舞鶴晩生カブ」と名付け、種子を販売した。同社代表の荒川安幸さん(64)は「昭和40年の中ごろまでは栽培されており、種子の袋詰めを手伝った記憶がある。50年代にはもう販売していなかった」という。
 地域固有の在来野菜は一般的に形が揃わないなどの特徴を持ち、形が一定で見た目もきれいな野菜が商品として求められるようになると、大手種苗会社がつくる一般的な品種が普及するにつれ、各地の多くの在来種と同様に舞鶴カブも次第に作られなくなり消えていった。
 そんな中、オランダなどで有機農業を学び、野菜の在来種の保存に取り組む前田知里さんが、舞鶴カブの種を守ってきた人から入手して栽培を手掛けた。食と農をテーマにしたワークショップ「野菜の学校」を宮津市で開き、在来種の大切さを紹介した。
 姫路市の化学素材メーカーの研究職だった稲葉さんは、2011年に有機農業を学ぼうと、ネットで知った西方寺平の霜尾共造さんの元で指導を受け舞鶴で就農した。2度の台風被害を受けたが、いまはニンニクの栽培を主にする。
 在来種にも関心を持ち、昨年「野菜の学校」に参加し、前田さんから舞鶴カブ3株を分けてもらい、他の品種と交雑しないように、大川に借りるビニールハウス内の畑に移植して種を採取。同10月中旬に種蒔きをして無農薬、無肥料で育てている。ネーミング権を持つ荒川種苗から後押しも受ける。
 間引きしたものを食べたところ、皮が柔らかく剥かなくても食べることができた。酢に漬けると薄いピンク色に染まり、きれいな漬物に仕上がった。いま約50株を種用として育てている。中には大きなものもあり、種を選抜して残していく。
 稲葉さんは「作り方は普通のカブと同じ。シナモンに近い風味がしておもしろい特徴があり、生でもサクサクと食べることができ、煮物にしてもおいしい。協力してくれる育種農家を増やし、まとまった量を生産できる態勢を近いうちに整え、食べたい人の元に届けられるようにしたい」と話していた。


写真左=種子用の舞鶴カブを育てる稲葉さん
写真右=土から上が赤紫色になる


日星高2年生 学習旅行
沖縄で平和と戦争考える
ひめゆりの塔や集団自決の地訪れ

 日星高校2年生115人が、学習旅行の行き先として毎年、沖縄を訪れている。今年は3月10日〜13日の日程で、多くの女子学生が亡くなったひめゆりの塔(糸満市)や住民たちが集団自決で亡くなったチビチリガマ(読谷村)などを訪れ、折り紙の千羽鶴と平和のメッセージを捧げる。
 これまでの学習旅行には、終戦後韓国に取り残された一人暮らしの日本人女性が生活する慶州ナザレ園を訪れていたが、国内に目的地を切り替え2年前から沖縄で戦争と平和を学ぶことにした。
 太平洋戦争中、日本で唯一地上戦が行われたのが沖縄本島。米軍の上陸によって日本側の犠牲者は20万人以上とされ、その内沖縄の民間人が9万4000人とも言われる。
 ひめゆり学徒隊は看護補助要員として女子学生と職員240人が動員されたが、約199人が攻撃や自決で亡くなった。ガマと呼ばれる洞窟には多くの住民と日本兵が逃げ込んだが、チビチリガマでは住民約140人の内83人が集団自決で亡くなっている。
 生徒たちは事前学習で沖縄戦の歴史を学び出発し、県立平和祈念公園やガマなどを見て回り、体験者から証言も聞く。看護科の生徒たちはひめゆり資料館なども訪れる。
 看護科2年の釣本怜奈さん(17)は「これからの看護の道に進むにあたり、命の大切さを沖縄で学んできたい」、亀井彩寧(さな)さん(同)は「沖縄で見て聞いたことを知らない人たちに伝えていけるようにしたい」と話していた。


写真=ひめゆりの塔に捧げる千羽鶴を手にする生徒たち


2015年3月3日












アート通して復興支援へ
3月10日〜13日 チャリティー作品展 サンムーンで
斗為巾コンサート、大室さん報告会も
地震発生の11日は午後2時46分に黙祷

 東日本大震災の被災者を支援しようと、2011年から続けているチャリティー作品展が、市民や作家たちによって今年も浜のギャラリー・サンムーンで企画された。20人以上が陶器、ガラスなどを出品し、収益金を被災地に届ける。会期は3月10日〜13日。11日にはチャリティーコンサート、東舞鶴高校出身の理学療法士で、福島などで活動するNPO法人職員の大室和也さん(31)の現地報告がある。
 市民たちが実行委員会(谷公人代表)を組織し、今回で6回目。画廊オーナーの佐藤保明さんが会場を提供し、多くのアーティストたちが協力している。来場者は作品を購入することで復興支援を後押しする。
 舞鶴在住の高井晴美さん、西野陽子さん、鉄尾伸介さん、絹川徳成さん、服部克哉さん、村山朋子さんをはじめ、近隣や京都市内などからも陶芸、絵画、木工、造形などのアーティストが作品やお菓子などを持ち寄る。また、岩手県大槌町の実家が被災した市民も食べ物を提供する。
 被災地で障害者が手掛ける製品開発のアドバイスや販路拡大、住民の心のケアに取り組むNPO法人難民を助ける会(東京都品川区)を通じ、収益金を被災地に届ける。4日間とも午前11時〜午後6時(最終日のみ同5時まで)。入場無料。
 11日は午後1時から、被災地の支援活動を続ける箏演奏家の立道明美さんらの箏アンサンブル斗為巾がコンサートを開く。入場料1,000円(全額寄付する)。
 午後2時から現地報告。大室さんは同会に13年に入り、台風被害を受けたフィリピンで被災者支援を、タジキスタンで障害のある子供たちへの教育支援にあたった。震災後は福島県南相馬市などの仮設住宅で暮らす住民たちに、運動不足の解消や話を聞く活動をする。
 大室さんは「被災地によって抱える問題や見通しが大きく異なっている。住民たちは家族が離散せざるをえない状況、仮設を出なければならない期限が迫るが今後のめどが立たないといった悩みを抱えていることを伝えたい」と話している。入場無料。
 地震発生の午後2時46分に黙祷する。
【問い合わせ】電話63・4858、サンムーン


写真左=展示作品の一部と来場を呼びかける佐藤さん(左)ら
写真右=南相馬市の仮設住宅で住民にマッサージをしながら話を聞く大室さん(難民を助ける会提供)


郷土資料館
今年度の寄贈資料を展示
表装道具や海軍の絵葉書など

 北田辺の郷土資料館で、今年度に寄贈された資料などを紹介する収蔵品展(市教委主催)が開催されている。平成26年度に同館が受け入れた900点の寄贈資料から選んだものに、館蔵資料などを含めた江戸〜昭和初期の約100点が展示されている。3月15日まで。
 寄贈資料の紹介では、江戸期の大丹生地域古文書や、明治期に現在の余部下地区で舞鶴海軍鎮守府設置のために作られた地図や工事書類、昭和初期に旧舞鶴海軍工廠の駆逐艦進水記念で発行された絵葉書、旧新舞鶴町の町章が書かれた記念木杯、1936(昭和11)年ベルリン五輪の棒高跳びで銅メダルを獲得した大江季雄選手が、帰郷して浮島グラウンドで模範演技を披露した写真などが並ぶ。
 ほかにも、平野屋の「凌雲堂」で地域の美術品や古文書の表装、屏風や衝立、襖などの新調や修理を手掛けた表具師・故藤野茂さんの家族が寄贈した表装道具類や、掛物「平野屋町屋敷間数図」もあり、舞鶴の伝統的な職人仕事を伝えている。
 館蔵資料からは、平野屋の商家に伝わった江戸後期の御殿雛や、1924(大正13)年に完成した由良川橋梁の工事写真などを展示。同館の各種同好会の活動も紹介している。
 午前9時〜午後5時。月曜休館。
【問い合わせ】電話75・8836、同館


写真=平野屋の表具師が使っていた道具類などが並ぶ収蔵品展


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